出島
出島(でじま、英語: Dejima、オランダ語: Deshima)は、1634年江戸幕府の対外政策の一環として長崎に築造された人工島。扇型で、面積は3,969坪(約1.5ヘクタール)[1][2]。日本初の本格的な人工島である[3]。


1636年から1639年までは対ポルトガル貿易、1641年から1859年まではオランダ東インド会社(AVOC、アムステルダムに本部のあるVOC)を通して対オランダ貿易が行われた。
明治以降は、長崎港の港湾整備に伴う周辺の埋立等により陸続きとなり、扇形の人工島であったころの面影は失われたが[4]、出島全体は1922年(大正11年)10月12日、「出島和蘭商館跡」として国の史跡に指定されている[5][6]。
歴史 編集
前史 編集
明は1371年の倭寇対策である海禁令のため銀不足に陥っていたが、日本では1526年に石見銀山が開山され銀の生産量が急増した。倭寇の頭領であった平戸藩王直は1543年、種子島にポルトガル人とともに漂着し、ポルトガル商人はこれをきっかけに明の中国生糸を日本銀と交換する取引の仲介を始め(南蛮貿易)、明はマカオへの施設の設置を認めたので、ここをアジア貿易の拠点とした。
当時の欧州はカトリックが支配的であったが、1528年にユトレヒト司教区がハプスブルク軍に占領され、1531年にはハプスブルク領ネーデルラントにアントワープ証券取引所が設立され、1566年にはここでオランダ人が蜂起して宗教改革や八十年戦争が起きた。改革派プロテスタントのオランダ商人らは、1602年にはオランダ東インド会社とアムステルダム証券取引所を創設し、1609年には江戸幕府の許可を得て平戸藩領に平戸オランダ商館を設置した。
江戸においてはオランダ商人は布教しない条件で営業を認められていたが、ポルトガル商人の関係者には同年、朱印状偽造事件が発生し、江戸幕府のカトリック信者やポルトガル商人に対する弾圧が始まった[注釈 1]。
建設 編集
出島は幕府によって1634年(寛永11年)から1636年にかけてポルトガル人を管理する目的で建設された[3][6]。設計は日本人がオランダ人から建築技術を学び、倉庫利用のため耐火性・防火性のある石と煉瓦造りの建物を幕府に提案したが耐震性の面で実現に至らず、また防衛設備の設置も許可されなかったが、漆喰を使うことは許された[8]。
当初は単に「築島」とも呼ばれていた[3]。築島の建設費銀200貫目(約4,000両)を今のお金に換算すると約4億円となる[9](これに建物の建造を含めた費用は300貫目と記録されている[3])。建設当初の面積は約15,000m2だった[6]。なお、江戸中期に長崎貿易を調査した大岡清相の『崎陽群談』には、面積3924坪船着き場45坪と記載されている。築造費用は、門・橋・塀などは幕府からの出資であったが、それ以外は高木作右衛門、高島四郎兵衛などの長崎の25人の有力者(出島町人)が出資した[10]。
肥前にあった松倉重政のキリシタン弾圧に対し1637年12月に島原の乱が発生すると、幕府は長崎滞在中のポルトガル使節の参府を禁じて出島に監禁した。一方、オランダ東インド会社は、ポルトガル船舶載品目録や、五箇所商人の長崎奉行宛ての大割符施行願や、シャム王室宛てに唐通事が起草した書翰の写を長崎代官を通じて提供されるなどの便宜を与えられた[11]。
乱の終結後の寛永16年(1639年)、元平戸藩士の浮橋主水が、平戸藩にキリシタンの嫌疑があると江戸幕府評定所に訴え出た浮橋主水事件が起こり、平戸藩は幕府の按検を受けた。訴えは誣告であるとされたが[注釈 2]、平戸に立ち寄った幕府の松平信綱は、平戸藩がオランダとの独占的な交易により強力な兵備を持っていることに気づいた。そのこともあり、後述のとおり幕府は寛永18年(1641年)、平戸藩領にあった平戸オランダ商館を、ポルトガル人を排除したのちの出島に移転させ、以後は開港地を出島に限定した。
ポルトガル人らは出島の借地料を毎年銀80貫支払う形式となっていたが、居住者がオランダ人になってからは銀55貫となった[3](初代の出島オランダ商館長(カピタン)となったマクシミリアン・ル・メールが交渉し、現在の日本円で約1億円に引き下げられた)。
鎖国 編集
1638年の春に幕府は、島原半島と天草諸島のキリシタンの百姓が起こした島原の乱を鎮圧した。それ以降幕府は、キリシタンの摘発をより強化し、禁教の徹底のためにカトリック国であるポルトガルとの関係を断絶しようとした。しかし、現実には、ポルトガルがマカオからもたらす中国産の生糸などが当時の日本にとって必要不可欠であり、オランダ東インド会社への信頼に不安を感じていたため、幕府は、1638年にはポルトガルとの貿易の断絶に踏み切れず、その代わり、マカオから江戸に派遣されたカピタン・モールの将軍への謁見を拒否するだけにとどまった。
1639年、平戸のオランダ商館長フランソワ・カロンが江戸に参府し、ポルトガルとの関係の断絶を幕閣に訴え、オランダがポルトガルに代わって、日本が求める輸入品を確実に提供できることを主張した。幕閣はカロンから、台湾や東南アジアから渡航する中国人が、直接長崎に来航することが問題ないことや、オランダがスペインとポルトガルに妨害されず長崎に来航できること、台湾に渡航する中国人を通じて、オランダが日本が求める輸入品を確保でき、かつ、台湾に渡航する中国人が明朝の渡航証明書を持っていることなどを確認し、ポルトガルとの関係を断絶しても支障がないと判断した。その結果として、同年、幕府は長崎奉行や九州地方の大名に「第5次鎖国令」を発布して、ポルトガル人を出島から退去させた。翌年の1640年には、マカオからのポルトガルの使節が、貿易再開を要求して長崎に渡来した。これに対して幕府は、ポルトガルの使節を処刑することで、ポルトガルとの貿易を改めて再開しない意思を示した。
その後、出島は無人状態となり、貿易利潤の損失だけでなく土地使用料も入らなくなったために、長崎の町は困窮した。幕府は出島築造の際に出資した人々の訴えを踏まえ、1639年に建設された倉庫の破風に西暦年号が記されているのを口実として、1641年に平戸オランダ商館を出島に移すように求めた。オランダ側にはこれに反対する意見もあったが、商館長カロンはこれを受け入れた。
こうしてオランダ商館は平戸から出島に移設された[6]。以後約200年間、出島には武装と宗教活動を規制されたオランダ東インド会社社員等が居住することになり、それまでのポルトガル人同様にオランダ人も幕府の監視下に置かれることとなった。
通常、長崎には毎年2隻のオランダ船が季節風を利用してバタヴィア(現在のジャカルタ)を出港し、バンカ海峡、台湾海峡などを経て、女島諸島、さらに野母崎をめざしてやってきた。例年7 - 8月ごろ来航し、その年の11 - 12月に帰路につくまでの約4ヶ月の滞在であった。船がいる間は多くのオランダ人を中心にした欧州人、マレー人が滞在していたが、それ以外の期間は商館長(カピタン)、次席商館長(ヘトル)、倉庫長、書記役(1 - 3人)、 商館医、商館長の補助員数人、調理師、大工、召使(マレー人)など15人前後の人が住んでいた。 翌年夏にオランダ船が入港するまでの間には、貿易に関する仕事や江戸参府などを行っていた。
オランダ商館長は、歴代、通商免許に対する礼として江戸に上り、将軍に謁見して貿易の御礼を言上して贈り物を献上している。これを「カピタン江戸参府」といい、毎年、定例として行うようになったのは1633年(寛永10年)からであり、商館が平戸から長崎に移されて以後も継続された。1790年(寛政2年)以降は4年に1度と改められたが、特派使節の東上は1850年(嘉永3年)まで166回を数えた。江戸の長崎屋源右衛門、京の海老屋は「阿蘭陀宿」として使節の宿泊にあてられた。
町並 編集
マクシミリアン・ル・メールの1641年6月10日の『平戸オランダ商館日記』によると、出島を初めて見た印象について、一般に倉庫が小さいとしつつ、住居7棟、倉庫8棟を商館として取り仕切ることができると記述している[3]。
平戸商館は石造の建物だったが、出島の建物はすべて木造建築だった[3]。幕府は石造の平戸商館の要塞化をおそれてオランダ商館の長崎移転の前後に破却している[3]。なお、幕末期には出島にも石造の洋風建築がみられるようになった[3]。
管理 編集
出島は長崎奉行の管理下にあり、その下にさまざまな人が出島で働いていた。「出島乙名(おとな)」は出島の責任者で、貿易についての監督や、出島内で働いている日本人の監督、指専や、出島に出入するための門鑑(通行許可書)の発行などを行った。「オランダ通詞」はオランダ語の通訳をする役人で、大通詞、小通詞、稽古通詞などの階級に分かれていた。大通詞は大体4名で交代で年番通詞を勤め、オランダ人の江戸参府に同行したり、風説書や積み荷の送り書きの翻訳をした。そのほかに日行使(にちぎょうし)、筆者、小使、火用心番、探番(門番)、買物使、料理人、給仕、船番、番人、庭番など、100人以上の多くの日本人が働いていたといわれる[9]。
ケンペルが「国立の監獄」と表現したように、原則として日本人の公用以外の出入りが禁止され、オランダ人も例外を除いて狭い出島に押し込められた(医師・学者としての信頼が厚かったシーボルトなどは外出を許されていた)。
出島表門には、制札場があって「定」と「禁制」の2つの高札がたてられていた。「定」というのは、日本人、オランダ人で悪事を企む者(抜荷(ぬけに)・密貿易等)があったら、すぐ告訴せよ、告訴すれば賞金を与えるという趣旨の高札である。
「禁制」としては次のように書かれていた。
禁制 出嶋町
- 一、傾城之外女入事
- 一、高野ひじり之外出家山伏入事
- 一、諸勧進之者並ニ乞食入事
- 一、出島廻リ傍示木杭之内船乗リ廻ル事 附橋之下船乗通事
- 一、断ナクシテ阿蘭陀人出島ヨリ外江出ル事
- 右ノ条々堅可相守モノ也
- 卯 十月[13]
つまり遊女以外の女、高野聖のほかの山伏や僧侶、勧進や乞食の出入り、出島の外周に打ってある棒杭の中、橋の下への船の乗り入れ、そして、オランダ人の無許可出島外出が禁じられていた[14]。
1651年に長崎諏訪神社が勧請造営され、祭礼長崎くんちも始められると、中国人と共にオランダ人も桟敷席での観覧が許された。
1797年(寛政9年)- フランス革命戦争でネーデルラント連邦共和国がフランス共和国に占領されてしまったため、数隻のアメリカ船がオランダ国旗を掲げて出島での貿易を行う。1809年(文化6年)までに13回の来航が記録されている。
1798年4月3日(寛政10年3月6日)、出島に大火が発生し西側半分を焼失。カピタン部屋も焼けた。他の建物は間もなく復旧したが、カピタン部屋は、オランダ商館の費用で建てることになっていたため、商館の財政難のため10年ほど再建されることはなかった。商館長ヘンドリック・ドゥーフによって建てられた新しいカピタン部屋は1809年1月に完成[15]。
1804年(文化元年)9月にロシア帝国からニコライ・レザノフが出島に来航し、ロシアとの国交樹立、通商を要求した。だが、レザノフたちは半年間出島に留め置かれ、翌年に長崎奉行所において、通商の拒絶を通告され釈放された。
文化5年8月(1808年10月)、フェートン号事件といわれるイギリス軍艦侵入事件が発生。武装ボートによって出島のオランダ商館員2名が拉致され、フェートン号に連行された。その後、食料や飲料水とひきかえに商館員は釈放された。
1810年、ホラント王国が皇帝ナポレオンの率いるフランス帝国に併合され、翌1811年にはバタヴィアがイギリスの占領下に置かれたため、1810年から3年間、出島には1隻のオランダ船も入港しなかった。この間、食料品などの必需品は、幕府が無償で提供し、長崎奉行は毎週2、3回、人を遣わして不足品があるかないかを問い合わせていた。その他の支払いについては、長崎会所の立て替えを受けてしのいでいたが、それでも文化9年(1812年)には、その総額が8万200両を超えた。この間、オランダ商館は商館長ドゥーフの所蔵している書籍を売るなどして財政難をしのいだ。その後、1815年にはネーデルラント王国が成立。つまりこの5年間、世界中でオランダ国旗がひるがえっていたのはここ出島だけだった[16]。
1817年7月、ブロンホフが妻子や召使いを同伴して商館長として着任した。幕府は女性を出島に入れる事を拒んだが、町の絵師達はこぞって彼女を題材に絵を描き、または人形を制作するなどした。家族は16週間の出島滞在の後、同年12月ドゥーフと共にオランダに帰国した。
文政11年(1828年)9月、オランダ商館付の医師であるシーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか十数名が処分され、景保は獄死した。シーボルトは文政12年(1829年)に国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けた(シーボルト事件)。
開国 編集
ペリー来航によって日本が開国され、1856年1月30日(安政2年12月23日)、日蘭和親条約締結によってオランダ人の長崎市街への出入りが許可された。
1856年には出島開放令[要出典]と共に出島の日本人役人が廃止され、3年後の1859年には、出島にあったオランダ商館も閉鎖された。
開国後は長崎の東山手、南山手、新地蔵などの地区と同じく外国人居留地となり1899年まで続いた[6]。
明治以降 編集
出島のある長崎港は、明治以降埋め立て等の改修・改良工事が度々実施されており、その中でも明治時代の二度の大規模な港湾改修事業は、出島の姿を大きく変えることになった[17]。1882年(明治15年)から始まった最初の港湾改修(第一次長崎港港湾改修事業)では、1886年(明治19年)から実施された中島川の変流工事に伴う川幅拡張により北側の敷地(出島全体の4分の1に相当[18])が削り取られ[19]、1888年(明治21年)には東側の護岸部分から築町との間が埋め立てられ、陸続きとなった[19]。 次いで、1897年(明治30年)に始まった港湾改修(第二次長崎港港湾改修事業)では南側の埋め立てが進められ、1904年(明治37年)の竣工時には完全な陸続きとなり、往時の扇型の姿は完全に失われた[19]。
1922年(大正11年)に高島秋帆旧宅、シーボルト宅跡、平戸和蘭商館跡とともに長崎県で初めて国の史跡に登録された[6]。ただし、当初、出島は史跡登録の候補には含まれていなかった[6]。また、敷地内も時が経つにつれて住宅や医院、商店が建ち並ぶようになっており、出島が国の史跡として登録された1922年(大正11年)時点では、道路を除くすべての土地が民有地となっていた[20][21]。
なお、1937年に出島があった範囲を示すための鋲が道路に打ち込まれた[6]。
復元への動き 編集
19世紀に日本で作られたこの模型は、復元事業において貴重な資料となった[22]
第二次世界大戦終結後、オランダは駐日大使を通じて首相の吉田茂に出島の復元を強く要求したとされている[6]。出島を抱える長崎市は、オランダ側の働きかけもあり1951年(昭和26年)ごろより出島の整備計画に着手[23]。翌1952年(昭和27年)からは出島史跡内の民有地を用地買収する公有化事業に着手し、事業開始から半世紀が経過した2001年(平成13年)に完了した[24][25]。1969年(昭和44年)から1978年(昭和53年)には出島史跡の整備方針を検討する「長崎市出島史跡整備審議委員会」を設置しているが、この時点で後の復元事業に繋がる19世紀初頭の出島を復元するという指針が示された[23]。
1984年(昭和59年)から2年にわたって、かつての出島の範囲を確認する調査を行った。その調査によって東側・南側の石垣が発見されている。また、当時の出島との境界がわかるように道路上に鋲を打った。
歴史的意義 編集
鎖国によって閉ざされた日本にとって、出島は唯一欧米に開かれた窓であった。オランダ商館に医師として赴任したケンペル(1690年–1692年滞日、主著『日本誌』)、ツンベルク(1775年–1776年滞日、主著『日本植物誌』)、シーボルト(1823年–1828年および1859年–1862年滞日、主著『NIPPON』『Flora Japonica(日本植物誌)』)らは、西洋諸科学を日本に紹介するいっぽう日本の文化や動植物を研究しヨーロッパに紹介した。上記3人は、「出島の三学者」と称されている。
享保年間、8代将軍徳川吉宗が実学を奨励してキリスト教関係以外の洋書を解禁した結果、出島からもたらされる書物は、医学、天文学、暦学などの研究を促進させた。出島は医学・植物学・物理学・天文学などの蘭学の窓口となり、各藩から長崎への遊学者は2000名におよんだといわれている[3]。
著名な商館長ならびに商館関係者 編集
-
ヤックス・スペックス - 初代オランダカピタン
-
フィリップ・ルーカス(1635年) レンブラント 画 - スペックス義妹と結婚、カロンに『日本大王国志』執筆を勧める。
-
フレデリック・コイエット - カロン義兄。
-
マクシミリアン・ル・メール - 初代出島カピタン、オランダ風説書作成開始。
-
イアーソーンとメーデイアに扮したウインニンクス夫妻婚礼図 (1664年) エルミタージュ美術館 蔵
-
コンスタンティン・ランスト・デ・ヨング邸にピョートル大帝が1717年に仮寓。
-
ヨハネス・カンフフイス(1685年) - ケンペルの『日本誌』執筆に携わる。
-
著書『日本誌』内で日本地図を描くエンゲルベルト・ケンペル。
-
カール・ツンベルク
長崎市による復元整備事業 編集
第1期整備事業 編集
1996年(平成8年)からは第1期整備事業として本格的な復元事業に着手。発掘調査と石垣の修復[26]と、敷地西側の建造物5棟(商館長次席が住んだ「ヘトル部屋」、商館員の食事を作った「料理部屋」、オランダ船の船長が使用した「一番船船頭部屋」、輸入品の砂糖や蘇木を収納した「一番蔵」・「二番蔵」)の復元が実施され、後者は2000年(平成12年)4月に完成した[27]。
-
一番船船頭部屋
-
一番蔵
-
ヘトル部屋
第2期整備事業 編集
2001年(平成13年)度からは第2期整備事業として、島を取り囲んでいた石垣のうち南側、131mの詳細な調査・修復・復元工事に着手するとともに、外周に歩道を整備し、扇形の輪郭を確認できるようになった[28]。建造物の復元も引き続き進められ、5棟(オランダ船から人や物が搬出入された「水門」、商館長宅「カピタン部屋」、日本側の貿易事務・管理の拠点だった「乙名部屋」(おとなべや)、輸入した砂糖や酒を納めた「三番蔵」、「拝礼筆者蘭人部屋」)が復元を終えている[22]。
-
整備・復元された南側の護岸
-
水門
-
カピタン部屋
第3期以降 編集
長崎市のホームページによれば、中央、東部分の計15棟を復元したのち、周囲に堀を巡らし、扇形の輪郭を復元する予定である。現在、筆者部屋他6棟の復元のため、発掘調査中である。市出島史跡整備審議会は2050年を目標に、かつて水に囲まれた扇形の島を完全復元するよう長崎市長に提言している。[1]
2010年2月18日、スウェーデンにおいて出島が「生物系統学の揺籃地」をテーマとする世界遺産暫定リストに掲載されたことが西日本新聞により報道された[2]。江戸時代中期に当地に滞在し研究活動を行った同国の植物学者ツンベルクの事跡に関連する遺産としての掲載であるとされている。
2017年には、出島と対岸を結んでいた橋が130年ぶりに同じ位置に架け直された[29][30]。橋の名称は「出島表門橋」で、歩行者がいないときは出島側に負担がかからない工法が取られている[31][32]。これは出島が国の史跡であり、橋を支える橋台を設置できないことから考案された[31][32]。橋は2017年2月27日に架設され[33]、同年11月24日にオランダ王室妃や秋篠宮夫妻ら出席のもと完成記念の式典が執り行われ、翌日より供用を開始した[34][35]。
扇形の理由 編集
出島が扇形をしている理由としては、以下のような諸説がある。
交通アクセス 編集
写真 編集
-
旧長崎内外クラブ
-
旧出島神学校
-
居留地時代の復元建築群
-
ミニ出島
-
西側から望んだ出島と中島川
脚注 編集
注釈
脚注
- ^ 越中 1978, p. 160.
- ^ 山口 2012, p. 9.
- ^ a b c d e f g h i j k l m “長崎『出島』の復元と考察”. 大林組. 2020年7月9日閲覧。
- ^ 山口 2012, p. 10-11.
- ^ 出島和蘭商館跡 長崎市役所サイドより
- ^ a b c d e f g h i 大平晃久「長崎出島における復元整備の経緯と問題点」『歴史地理学』第56巻第1号、21-31頁。
- ^ 山口 2012, p. 12-13.
- ^ Ito 1973, p. 83.
- ^ a b “出島(長崎出島オランダ商館跡)”. 長崎ん町. 2014年5月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年5月19日閲覧。
- ^ 越中 1978, p. 160-161.
- ^ 東京大学 1978年。「幕府は島原の乱後の賞罰を明らかにし、松倉氏を処分し、松浦氏を賞し」た。
- ^ 長崎唐蘭館図巻 - 神戸市立博物館
- ^ 出島の定め
- ^ 商館医が町にもたらしたもの 出島370年物語より
- ^ “vol.2 カピタン部屋の移り変わり < 出島370年物語 < ナガジン”. 長崎市. 2014年5月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年5月20日閲覧。
- ^ 出島と長崎 出島 Dejimaより
- ^ 山口 2012, p. 10.
- ^ 越中 1978, p. 164.
- ^ a b c 山口 2012, p. 11.
- ^ 山口 2012, p. 11-12.
- ^ 越中 1978, p. 160-163.
- ^ a b 山口 2012, p. 16.
- ^ a b 山口 2012, p. 12.
- ^ 山口 2012, p. 13-14.
- ^ 山口 2012, p. 19.
- ^ 山口 2012, p. 14-15.
- ^ 山口 2012, p. 15.
- ^ 山口 2012, p. 15-16.
- ^ “長崎出島に架ける橋、130年ぶり整備へ 11月下旬にも完成”. 産経ニュース. (2017年5月15日) 2017年5月20日閲覧。
- ^ “長崎・出島に38mの橋架設 江戸時代と同じ目線を体験”. 朝日新聞デジタル. (2017年2月27日). オリジナルの2017年5月20日時点におけるアーカイブ。 2017年5月20日閲覧。
- ^ a b 山口 2018, p. 101.
- ^ a b 山下久猛. “「2つの壁」を乗り越え、“出島”に再び橋を架けろ!――出島表門橋架橋プロジェクト・渡邉竜一氏たちの挑戦”. リクナビNEXT. 2020年5月26日閲覧。
- ^ 山口 2018, p. 80.
- ^ “長崎・出島:「表門橋」130年ぶりに復元”. 毎日新聞. (2017年11月24日) 2018年10月12日閲覧。
- ^ 山口 2018, p. 10.
参考文献 編集
- 東京大学資料編纂所. “日本関係海外史料「オランダ商館長日記 訳文編之三(下)」”. 東京大学資料編纂所. 東京大学. 2022年1月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年1月3日閲覧。
- 赤瀬浩『「株式会社」 長崎出島』(講談社選書メチエ、2005年) ISBN 4-06-258336-4
- ヴォルフガング・ミヒェル、鳥井裕美子、川嶌眞人編『九州の蘭学』(思文閣出版、2009年)ISBN 4-7842-1410-0
- 越中哲也『越中哲也の長崎ひとりあるき』長崎文献社〈長崎おもしろ草〉、1978年4月。
- 片桐一男『開かれた鎖国 長崎出島の人・物・情報』(講談社現代新書、1997年) ISBN 4-06-149377-9
- 片桐一男『出島 異文化交流の舞台』(集英社新書、2000年) ISBN 4-08-720058-2
- 長崎市教育委員会 発行・編集『出島』(長崎市、2001年改訂版)
- 長崎市出島復元整備室 監修『出島生活 恋も仕事も事件もあった』(長崎市、2001年)
- 長崎大学<出島の科学>刊行会 編著『出島の科学 長崎を舞台とした近代科学の歴史ドラマ』(九州大学出版会、2002年) ISBN 4-87378-733-5
- 西和夫『長崎出島オランダ異国事情』(角川叢書、2004年) ISBN 4-04-702128-8
- 西和夫 編『復原オランダ商館 長崎出島ルネサンス』(戎光祥出版、2004年) ISBN 4-900901-35-0
- ヴォルフガング・ミヒェル「享保年間の出島図について」『医譚』第112号、2020年12月 (pdf)
- 森岡美子、金井圓監修 『世界史の中の出島』 (長崎文献社、2005年)ISBN 4-88851-089-X
- 山口美由紀『長崎出島 甦るオランダ商館』 (同成社<日本の遺跡>、2008年) ISBN 978-4-88621-439-3
- 山口美由紀「失われた出島と復元整備」『長崎文化 第70号記念』、NPO法人長崎国際文化協会、2012年11月。
- 山口美由紀『出島 つながる架け橋』長崎文献社〈長崎文献社ブックレット〉、2018年4月。ISBN 978-4-88851-294-7。
- Ito Teiji『Kura: Design and Tradition of the Japanese Storehouse』講談社〈講談社インターナショナル〉、1973年。ISBN 0870112171。
関連項目 編集
- 日蘭関係
- 日葡関係
- オランダ正月
- オランダ商館
- オランダ商館日記
- イリス (企業)
- 唐人屋敷
- 国立民族学博物館 (オランダ)
- 明治維新以前に日本に入国した欧米人の一覧
- 佐須奈港 - 江戸時代の朝鮮との貿易港
- ドゥーフ・ハルマ - ハルマ和解
- 諳厄利亜語林大成 - 初の英和辞典
- ヨーク・アントワープ規則 (1860年)
- 埋立地 - 干拓
- 人工島 - 長州出島
- さいたま市駒場スタジアム - 浦和レッドダイヤモンズ元本拠地
- アウェー側のゴール裏がホーム側と直接通り抜けできないため、この地名にちなみ「出島」と呼ばれている。
外部リンク 編集
- 長崎市 出島公式ホームページ - 長崎市による観光情報など
- 国指定文化財等データベース
- 洋書における出島図
- 甦る出島|新しい出島の誕生 - 長崎市 出島復元公式ホームページ
- 出島 - NHK for School
- JAPAN IN EUROPE: A chronological bibliography of Western books and manuscripts (16th-19th century)
座標: 北緯32度44分36.67秒 東経129度52分22.87秒 / 北緯32.7435194度 東経129.8730194度