劉栄祖(劉榮祖、りゅう えいそ、? - 424年)は、東晋から南朝宋にかけての軍人本貫彭城郡彭城県安上里。

経歴 編集

劉懐慎の庶長子として生まれた。若くして騎射を好み、劉裕の知遇をえた。義熙6年(410年)、盧循の軍が小艦に分乗して建康を守る防柵に迫ると、劉裕は敵に矢を射かけないよう全軍に命じた。しかし栄祖は禁を犯して弓矢を射かけ、弦に応じて敵兵を倒した。戦功により参太尉軍事となった。義熙11年(415年)、司馬休之の乱の討伐に従軍した。彭城国内史の徐達之が敗れると、諸将の士気は下がったが、栄祖はますます好戦的な態度を示したため、劉裕は着ていた鎧を脱いで栄祖に与えた。栄祖は部下を率いて敵陣に突入し、体に多くの傷を負いながら奮戦して、出会う敵を敗走させた。振威将軍の号を受けた。まもなく劉義符の下で参征虜軍事となり、遂成県令を兼ねた。

義熙12年(416年)、劉裕が北伐すると、栄祖は鎮西中兵参軍となり、寧遠将軍の号を受けた。水軍で黄河に入ると、朱超石とともに半城で北魏長孫嵩の軍を破り、また劉度塁を攻撃して落とした。太尉中兵参軍に転じ、建威将軍の号を加えられた。北伐軍が長安を陥落させると、後秦姚泓の娘婿の徐衆が残軍を率いて陣営の再建を図った。栄祖は檀道済らとともに徐衆の陣営を攻撃し、敵の多くを斬首した。

義熙14年(418年)、彭城国内史に任じられた。さらに相国参軍に任じられた。この年、建康に帰り、劉義符の下で中兵参軍となった。

永初元年(420年)、劉裕が帝位につくと、栄祖は越騎校尉に任じられた。まもなく右軍将軍の号を受けた。景平元年(423年)、北魏の軍が南侵してくると、司州刺史毛徳祖が敗死した。ときに栄祖は父の喪に服していたが、輔国将軍として起用された。かつての半城での功績を論じられて、都郷侯の爵位を受けた。栄祖は財産を軽んじて義を尊び、将士を可愛がったが、いっぽうでは偏屈な性格でもあった。

元嘉元年(424年)、少帝(劉義符)が廃位され、文帝(劉義隆)が即位すると、栄祖は謝晦に政権参加を求められたが、固辞して免官された。謝晦が荊州刺史として出向すると、栄祖は南蛮校尉として請われたが、やはり固辞した。この年の冬に死去した。

伝記資料 編集