力侍神社

和歌山県和歌山市川辺にある神社

力侍神社(りきしじんじゃ)は、和歌山県和歌山市川辺に鎮座する神社。鎮座地川辺を始め、上野、島、神波、楠本の総氏神として一帯の信仰を集める。摂社である八王子神社と東西に並立する。『延喜式神名帳』の紀伊国牟婁郡「天手力男神社」の後継社とする説もある(式内社論社)。旧村社

力侍神社

力侍神社参道
所在地 和歌山県和歌山市川辺字稲井61
位置 北緯34度15分42.9秒 東経135度15分42.6秒 / 北緯34.261917度 東経135.261833度 / 34.261917; 135.261833
主祭神 天手力男命
猿田彦命
社格 式内社論社・旧村社
創建 伝平安時代中期
本殿の様式 一間社流造杮葺
例祭 10月10日
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本殿は八王子神社のそれとともに和歌山県の有形文化財(建造物)に指定。境内は九十九王子の一つである川辺王子跡として和歌山県の史跡に指定されている。

祭神 編集

天手力男命猿田彦命を祀り[1]、他13神を配祀する。

由緒 編集

社伝によれば、当初は和歌山県田辺市本宮町の大斎原(熊野本宮大社の旧社地)[2]に鎮座していたが、平安時代中期に現社地の東北方である神波(こうなみ)の字桑畑に遷座したのが創祀であると伝える。なお『紀伊続風土記』(以下『続風土記』と略記する)は『紀伊国神名帳』(以下『国帳』と略す)名草郡に見える地祇30社中の「従四位上 雨手力男神」が当神社のことであり、『延喜式神名帳』紀伊国牟婁郡に載せる「天手力男神社」がその前身、また手力男命の神名とその功業から「力士」の社名が生じ、それが転じて「力侍」神社になったもの、と考証しているが[3]、史料的に立証できないために根拠が薄弱であると評されている[4]

社伝によれば、創祀後神波に西隣する上野の八王子神社の鎮座地[5]に遷座、その後江戸時代寛永3年(1626年)3月に神託により八王子神社とともに現在地に遷され、八王子神社は摂社として東側(向かって右側)に並び祀られるようになり[6]、以来川辺、楠本、島、神波の4箇村の産土神とされた。なお『続風土記』によれば、円鏡山山王院という仁和寺真乗院末寺別当神宮寺として境内に置かれていた(後に廃寺)。

明治6年(1873年)村社に列し、同43年(1910年)に付近一帯の神社を合祀している。なお、旧神波村に当初の鎮座地の遺祠と思われる小祠があったが、これもこの時に合祀されており[7]、同時に九十九王子である中村王子の旧跡とされる楠本の楠本神社、同じく川辺王子の跡とされる上野の八王子社(上野の旧鎮座地に遺存した小祠)も合祀された。

社殿 編集

本殿は一間社流造杮葺で和歌山県指定有形文化財(後述「文化財」の節参照)。

境内社 編集

摂社 八王子神社
現在は天之忍穂耳命五男三女神八衢彦命八衢姫命を主祭神に、天児屋根命他11柱を配祀する。上述のようにかつては上野に鎮座しており、『続風土記』はその当時のこととして「寛永記」[8]を引き、弘仁年中(9世紀初葉)の創祀で、川辺、楠本、島、神波、上野、別所、落合の7箇村の産土神とされ、社地15余りを有したが、天正時代の豊臣秀吉による紀州制圧により社地は全て没収、その際に古文書類も紛失したと記す。また『続風土記』自体は「按ずるに当社は「熊野御幸記」[9]に載する所の川辺王子にして、僧心敬が『さゝめこと』の自跋にある八王子の社これなり」と考証している[10]。本殿は本社本殿同様、県指定の有形文化財(後述「文化財」の節参照)。
末社 楠神社
楠大明神を祀り、玉垣内八王子神社の東に鎮座する。もと和歌山市楠本字南ノ口[11]に鎮座し、『国帳』に載せる「従四位上 楠本大神」と見られ[12]、近世には「楠本神社」や「楠本大明神」と称された。延暦5年(786年)に、楠本に棲息していた大蜘蛛を退治した坂上田村麻呂によって創祀されたと伝え、明治6年に無格社とされたが、同43年に遷祀の形で力侍神社に合祀された[7]。因みにこの大蜘蛛について、『紀伊国名所図会』(文化8年〈1811年〉刊の初編。以下『名所図会』と略す)によると、かつて楠本にはの大木が聳え立っていたが、そこに大蜘蛛がいて楠樹から和佐山(現高積山[13]まで巣を張って人民を困らせていたので、大同年中(9世紀初頭)に勅命を蒙った田村将軍(田村麻呂)がこれを退治すると共に楠樹も伐り倒し、その切り株から楠が叢生して森を形成したとの伝えがあり、当時(19世紀初め)には実際に周囲30(およそ50メートル)、数千年の齢を経たと思われる切り株があったと記している。また『続風土記』は楠本神社を九十九王子の「中村王子跡」に比定し、これが現在の通説とされるが、下述するように異論もある(「文化財」節の「史跡川辺王子跡」参照)。なお、杉原泰茂延享3年〈1746年〉の『南紀神社録』)や『名所図会』では祭神を熊野樟日命としている。

その他、牛瀧社(玉垣内)、稲荷社、妙見社の各末社がある。

祭祀 編集

近世には上述のように別当寺院が置かれていたが、産子4村によって中世に遡ると見られる宮座も組織され、祭祀や神社の普請、遷宮などを掌った。宮座は「番頭」(中世荘園に置かれた番頭の遺称とされる)を中心に運営され、番頭は「朔日講」と称して、1・3・5・7・9・11・12各月の朔日に会合を持ち、神社経営を始め広く村政全般についての取り決めを行った。番頭以外の構成員は「里守(里之守)」と呼ばれ、また「平座」とも呼ばれた。いずれも当初は経済的優位を背景とした古来の家格と伝統に基づいて就任していたが、絶家となったり社会経済の発展にともなって没落する者も出てきたため、近世中期以降は新興農民を新たに編入し、古来の家筋を「例座」、新規参入の家を「褒美入座」と区別している。「褒美」と称されるのは主として座への献金が要件とされたためで、そこからも分かるように中期以降は経済的に窮迫していき、幕末には朔日講を中止して費用を節約し、蓄えた資金を貸し付けてその利子を座の運営資金に充てる等、古来の仕来りを改めて財政の確立を計らねばならない程であった。また、それにともなって例座と褒美入座とで席次をめぐる対立も起こり[14]、或いは座と座外一般との対立も発生、現在の家柄による特権を廃した氏子制への過渡的状況を示している[15]

現在は10月10日を例祭とするが、これと1月1日、4月と7月の10日、8月18日、12月10日の年6度の祭典を「例祭日」と称している。

文化財 編集

(件名後の括弧内は指定の種別と年月日)

和歌山県指定 編集

  • 本殿(有形文化財(建造物)、昭和54年(1979年)6月9日)
  • 摂社八王子神社本殿(同上)
ともに一間社流造檜皮葺で、全体に極彩色を施し、棟には千木・鰹木を置く。縁(大床)を正面と側面の3方に設けて擬宝珠を持つ高欄を廻らし、脇障子を構え、背面の縁を省略する。身舎正面は引違い格子戸とし、他の3面を白塗りの板壁とする他は極彩色を施す。棟札から本社本殿は寛永11年の軸立、摂社本殿はそれを遡る寛永元年の軸立であることが判明し、木鼻蟇股の彫刻に優れると共に、建立時の形態がよく保たれた、県内にある桃山時代の遺風を残す神社建築の代表例とされる[16][17]。なお、本社本殿に比べて摂社本殿の方が一回り大きく造作されているが、摂社本殿の身舎の壁は無地なのに対し、本社本殿は両側面の壁に花を描く。ともに昭和54年に指定[18]
  • 川辺王子跡(史跡、昭和33年(1958年)4月1日)
熊野九十九王子である川辺王子の遺跡「川辺王子跡」として昭和33年に指定されている[19]。なお、川辺王子跡としては『続風土記』が八王子神社の旧社地である上野に比定し、『和歌山県聖蹟』がその説を追認して以来、現在では同所が有力な候補地とされ(現在和歌山の史跡に指定)、また当神社は中村王子があった地ではないかとする説もあって、川辺王子を含めた紀ノ川北岸の王子の位置については多くの問題が残されている[20]

脚注 編集

  1. ^ 『南紀神社録』や『名所図会』は祭神を麻為比売命とする。
  2. ^ 北緯33度50分04秒 東経135度46分28秒 / 北緯33.83444度 東経135.77444度 / 33.83444; 135.77444
  3. ^ 『延喜式神名帳』牟婁郡に「天手力男神社」が見えるが『国帳』牟婁郡には同名神社はもとより類似する神社すら見えないので、「天手力男神社」が『延喜式』編纂後に牟婁郡から名草郡へと遷されたために『国帳』では名草郡「雨手力男神」として記載されたとし、またそれが当神社の前身でもあると説く。
  4. ^ 橋本、「天手力男神社」。
  5. ^ 北緯34度16分06.0秒 東経135度15分11.7秒 / 北緯34.268333度 東経135.253250度 / 34.268333; 135.253250
  6. ^ 『続風土記』が同様の伝えを記している。但し、後述するように八王子神社の現本殿の軸立は寛永元年である。なお、『名所図会』も、現在地への遷座が神託によるものであったとの伝えを記すが、その伝えは遷座の時代を降って宝永年中(18世紀初頭)のこととしている。
  7. ^ a b 『和歌山県誌』。
  8. ^ 紀州徳川家が入封後に紀伊国内の「神社仏寺故事旧跡」の調査を命じ、その調書を寛永から寛文にかけてのおよそ50年間に取り纏めたもの。取り纏めは何度か行われたようで、「寛永記」はその中の寛永時代に纏められたものである(『続風土記』)。
  9. ^ 「後鳥羽院熊野御幸記」。藤原定家の日記『明月記』に叙す、建仁元年(1201年)の後鳥羽上皇による熊野参詣の記録。「熊野道之間愚記(くまのみちのあいだぐき)」ともいう。
  10. ^ 心敬は室町時代中期の僧侶で川辺村を含む田井荘の出身、連歌師としても活躍した。その著である『ささめごと』は連歌論であるが、跋文には55年ぶりに帰郷、川辺王子に参籠してこれを著したと述べている。
  11. ^ 北緯34度15分37.5秒 東経135度15分30.9秒 / 北緯34.260417度 東経135.258583度 / 34.260417; 135.258583
  12. ^ 『南紀神社録』、『名所図会』、『続風土記』。なお「楠本大神」も「雨手力男神」同様、名草郡地祇30社中にある。
  13. ^ 北緯34度14分05.31秒 東経135度15分40.8秒 / 北緯34.2348083度 東経135.261333度 / 34.2348083; 135.261333
  14. ^ 文久2年(1862年)に例座を上席とすることで一応の解決を見た(同年正月付「川辺庄座内座調書」)。
  15. ^ 安藤、『近世宮座の史的研究』。なお、前掲「座調書」は同書史料編所収の「川辺庄文書(4)」に紹介されている。
  16. ^ 平成5年3月31日付「力侍神社本殿・摂社八王子神社本殿」(和歌山県教育委員会と、和歌山市教育委員会、力侍神社の3者名義による社頭説明板)。
  17. ^ 日本建築学会編『総覧日本の建築』第6-Ⅱ巻(奈良・和歌山)、新建築社、2002年。
  18. ^ 和歌山県教育委員会. “県指定文化財・有形文化財・建造物”. 2009年10月25日閲覧。
  19. ^ 和歌山県教育委員会. “県指定文化財・記念物”. 2009年10月25日閲覧。
  20. ^ 小山靖憲「熊野詣と参詣道」(『和歌山市史』第1巻、和歌山市、平成3年 所収。「中世の和歌山」第1章第4節第1項)。

参考文献 編集

  • 安藤精一『近世宮座の史的研究』、吉川弘文館、昭和35年(1960年)
  • 紀州藩編『紀伊続風土記』(和歌山県神職取締所翻刻)、帝国地方行政学会出版部、明治43年(1910年)
  • 高市志友『紀伊名所図会』1(歴史図書社による改題復刻版)、歴史図書社、昭和45年(1970年)
  • 橋本観吉「天手力男神社」(式内社研究會編『式内社調査報告』第23巻 南海道、皇學館大學出版部、昭和62年(1987年〉 所収)
  • 『和歌山県誌』下巻、和歌山県、大正3年(1914年)
  • 『和歌山県の地名』(日本歴史地名大系31)、平凡社、1983年(昭和58年)ISBN 9784582490312
  • 『角川日本地名大辞典』第30巻(和歌山県)、角川書店、昭和60年(1985年)ISBN 4-04-001300-X
  • 『和歌山県神社誌』、和歌山県神社庁、平成7年(1995年)

関連項目 編集

外部リンク 編集