加藤 義男(かとう よしお、1920年[1] - 1942年12月13日[2]) は、日本の元アマチュア野球選手。岐阜県出身。

来歴・人物 編集

岐阜商業(現・岐阜県立岐阜商業高等学校)在学中には、甲子園に5回出場[3]し、優勝1回(1936年夏。ちなみに同校初優勝でもあった)、準優勝2回(1938年夏)、ベスト4・1回(1938年春)と活躍した。岐阜商時代は三塁手で、当時のチームメイトに松井栄造加藤三郎加藤春雄森田定雄国枝利通大島信雄等、後に大学野球プロ野球でも活躍した選手が何人もいる[4]

岐阜商業卒業後、南満州鉄道に入社。満鉄野球部でも三塁手[1][5]として活躍したが、後に応召1942年12月13日ビルマラングーン郊外で乗っていたトラックが横転し、野戦病院で手当を受けるも即死の状態であった[1][2]。享年22[1]

東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、彼の名前が刻まれている[6]

脚注 編集

  1. ^ a b c d 「出口のない海」(ブログ・歴史~とはずがたり~)
  2. ^ a b 戦没野球選手慰霊(沢村栄治記念館のページ)
  3. ^ 5大会以上甲子園に出場した選手(ベンチ入りも含む)-野球回廊
  4. ^ ただし、加藤自身も含めて、松井や加藤三郎など加藤とチームメイトだった人物が5人も戦死している。
  5. ^ 甲子園を沸かせたもう一人の松井がいた(739回・蛭間豊章記者のBaseball inside)
  6. ^ 戦没野球人モニュメント-モニュメントに刻まれた戦没野球人一覧(野球殿堂博物館のページ)