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北村 季晴(きたむら すえはる、1872年5月22日明治5年4月16日) - 1931年昭和6年)6月17日)は、明治大正日本作曲家作詞家演出家東京府銀座出身。

北村 季晴
きたむら すえはる
Kitamura Sueharu.jpg
1910年頃
基本情報
生誕 (1872-05-22) 1872年5月22日
明治5年4月16日
日本の旗 日本 東京府銀座(現:東京都中央区
死没 (1931-06-17) 1931年6月17日(59歳没)
学歴 東京音楽学校師範部 卒業
ジャンル 唱歌歌劇
職業 作曲家作詞家演出家

目次

経歴編集

明治5年4月16日(西暦1872年5月22日)[1]、東京府銀座(東京市京橋区を経て現在の東京都中央区)に漢学者で14代将軍徳川家茂の侍講を務めた北村季林・鉞夫妻の一子として生まれた。江戸時代前期の国文学者北村季吟は7代前の先祖で、季晴は季吟から見て仍孫(じょうそん)に当たる[2]

父と親交のあったジェームス・カーティス・ヘボンが開校した明治学院に入学し、同級生となった島崎藤村と親交を結ぶが季晴に音楽の才能を見出したヘボンの薦めもあり学院を中退。東京音楽学校師範部へ進み、田中正平に師事する[1]。卒業後は父の季林が経営していた私塾の向南学校を手伝っていたが、同校は1895年(明治28年)に季林の急逝を受けて閉校した。東京音楽学校の後輩に誘われて青森県師範学校の音楽教諭となった後に長野県師範学校信州大学教育学部の前身)の教諭を務めていた依田弁之助の誘いを受けて同校へ赴任し、1900年(明治33年)に浅井洌が作詞した地理唱歌「信濃の国」に曲を付ける。季晴が付けた曲は2年前に依田が作曲したものに代わって好評を博し、1968年(昭和43年)の正式な県歌としての制定を経て現在に至るまで長野県全域で愛唱され続けている。

1901年(明治34年)に長野県師範学校を退任し、三越呉服店音楽部主任となった。季晴の作詞・作曲・演出で1905年(明治38年)に歌舞伎座で弥生狂言の中幕として演じられた『露営の夢』は、日本人の手になるものとしては最初の本格的な歌劇とされている[2]1909年(明治42年)に独立して北村音楽協会を立ち上げるが[1]、同時期に母校の東京音楽学校から邦楽調査掛員に任命され邦楽の採譜を精力的に行った[2]1912年(明治45年)、歌舞伎座で自ら作詞・作曲・演出を手掛けた歌劇『ドンブラコ』を妻の初子と演じる。この『ドンブラコ』は、1914年大正3年)に発足した宝塚少女歌劇の第1回演目となった[2]1927年(昭和2年)、北村児童歌劇協会を設立。

1931年(昭和6年)6月17日没。享年60歳(満59歳没)。墓所は東京都台東区谷中瑞輪寺境内。

作品編集

特に注記がない場合は本人が作詞も行っている。

唱歌編集

歌劇編集

  • 須磨の曲
  • 露営の夢
  • ドンブラコ

参考文献編集

出典編集

  1. ^ a b c 北村季晴コトバンク・デジタル版 日本人名大辞典+Plus)
  2. ^ a b c d 市川・小林(2014), pp25-28