東京都立小石川中等教育学校
東京都立小石川中等教育学校(とうきょうとりつ こいしかわちゅうとうきょういくがっこう)は、東京都文京区本駒込二丁目に所在する都立中等教育学校。
東京都立小石川中等教育学校 | |
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過去の名称 |
東京府立第五中学校 東京都立小石川高等学校 |
国公私立の別 | 公立学校(都立) |
設置者 |
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校訓 | 立志・開拓・創作 |
設立年月日 |
1918年(府立五中) 2006年(中等) |
共学・別学 | 男女共学 |
学期 | 3学期制 |
中等教育学校コード | 13335D |
所在地 | 〒113-0021 |
![]() 北緯35度43分44.4秒 東経139度44分45.1秒 / 北緯35.729000度 東経139.745861度座標: 北緯35度43分44.4秒 東経139度44分45.1秒 / 北緯35.729000度 東経139.745861度 | |
公式サイト | 東京都立小石川中等教育学校 |
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概要編集
1918年に東京府立第五中学校として創立。1950年、東京都立小石川高等学校と改称する。校名の「小石川」は、現校地に移転した1946年当時が小石川区同心町(小石川区は1947年に本郷区と合併し、文京区となる)に立地していたことに由来する。2006年に中等教育学校として改編され中高一貫校化した。
アカデミックで自由な校風で知られ、創立時より、初代校長伊藤長七の方針を受け継ぎ、理化学教育に重きを置いた教育を行っている。
建学の精神編集
- 立志・開拓・創作
三校是と呼ばれている。「自ら志を立て、自分が進む道を自ら切り拓き、新しい文化を創り出す」という意味。府立五中の初代校長である伊藤長七が熱心に説いていた言葉である。以下は、第2回の入学式において、伊藤が新入生に語ったものである。
立志とは、昔、支那周代の大聖人、孔子が十有五で志を立て、学問を始められたように、それとほとんど同じ年頃の日本の男子が、高等普通教育を受けるために中学校に入学する志を立てることである。かのマゼランの世界一周、かの博士ヘディンの中央アジア探究、あるいはナンセン博士の極地探検、いずれが 開拓の精神の発露にあらざらん。さては高峰譲吉博士、野口英世博士のごとき、あるいは南米各地に移住植民せる同胞の若き男女のごとき、これらを真の開拓者という。しかり、しかれども、我らのいわゆる開拓者は、決して遠征家、海外移住者の如きに限れるにあらず。キュリー夫妻 のごとく、マルコーニ のごとき者、齢八十にして発明の意気なお颯爽、過去に成功せし一千百種の発明を基礎として、さらに新たなる大発明を企てるエジソン博士のごとき、これを真の開拓者という。創作とは、自分の力でできるだけの仕事を、自分でなし、自分で考え、自分で工夫し、他人のまねでない、何かを作り出すということである」[1]
沿革編集
府立五中と伊藤長七編集
初代校長の伊藤長七は、東京朝日新聞に掲載された「現代教育観」において、「画一主義の普及」や「科学的研究の貧弱」といった論題で当時の様々な教育問題を革新的に論じ、一躍注目を浴びた。
井上友一東京府知事や後藤新平らの関与で府立五中の初代校長に抜擢されると、理化学研究所が隣接していた立地を活かし、自然科学を主とする理化学教育重視の学校を打ち出した。天体観測や気象観測などの実験や校外学習の重視、通常では中学3年次から始める物理・化学の中学1年次からの学習、独自に編集された「物理化学」の教科書の使用、当時としては高度な設備を持った化学実験室での実験講義など、伊藤の「科学者を輩出する学校」の理念の基に、他校とは一線を画する独自の理化学教育が行われた。
自由主義による教育を理想としていた伊藤は、大正デモクラシーの気風も追い風に、「男女共教」の観点から女性教師を次々と採用[2]、「詰襟制服は胸元を圧迫し自由な思考を阻害する」との持論より、背広とネクタイを制服として制定、夏休みには、伊藤の故郷である長野県北佐久郡志賀村(現・佐久市)で農村生活の体験をする「転地修養隊」を結成[3]。いずれも当時においては画期的であり、何もかもが型破りな教育者として、府立五中と伊藤長七の名が全国に広まった。
校長在任中に単独で米国大統領と会見を開く[4]など、海外渡航経験の豊富であった伊藤は、生徒達に国際的教養の必要性を説いて、国際交流や外国語教育にも力を入れた。イギリス人による英会話授業や、当時高価であったレコード教材による外国語授業、1921年には、日本中の子供達に英語で手紙を書かせて、1万通を超える手紙を海外の訪問先で配布して、文通による国際交流を実現した。大正という時代の中で、伊藤が生徒達に国際人としての意識を持たせようとしたエピソードとして、以下のものが知られている。
- 端午の節句の日に、伊藤は生徒達と、「アメリカに届くように」と、校庭から風船を入れた紙製の鯉を飛ばした。結局国内から郵送され返ってきてしまったが、伊藤は生徒達に「諸君、この鯉のぼりはアメリカに行って、埼玉県に帰ってきたのだ。」と話した。
1930年に肺炎のため死去。学校葬が執り行われた。伊藤長七の死後も、教育理念はOBの眞田幸男(第6代校長・1964年―1968年)らによって連綿と受け継がれ、今日に至っている。
年表編集
- 1918年 - 東京府立第五中学校として設立。翌年、小石川区駕籠町(現・文京区本駒込二丁目、現校地)に開校。
- 1943年 - 都制実施に伴い、東京都立第五中学校と改称。
- 1945年
- 4月 - 戦災により駕籠町の校舎焼失、明化国民学校(現・文京区立明化小学校)に移転。
- 11月 - 滝野川の旧陸軍東京第一造兵廠内の地(現・東京都立王子総合高等学校)に移転。
- 1946年11月 - 同心町の小石川高等小学校・小石川工業学校校舎(現・文京区立茗台中学校)に移転。
- 1948年 - 東京都立第五新制高等学校と改称。
- 1949年 - 男女共学となる。
- 1950年 - 東京都立小石川高等学校と改称。
- 1957年 - 現在地(創立時の場所)に移転。
- 1967年 - 学校群制度の導入で竹早と共に41群に属す。
- 1994年 - 新校舎が落成。
- 2006年
- 東京都立小石川中等教育学校を開校し中高一貫校化。中学募集を開始。
- スーパーサイエンスハイスクールに文部科学省より指定を受ける。
- 2008年 - 定時制一橋分校閉課程[5]。
- 2009年 - 全日制募集停止。
- 2011年 - 高等学校を閉校し、中等教育学校に完全移行。
校歌編集
1919年に制定。伊藤長七自身が作詞。作曲は北村季晴。8番まであるが、通常は1・4・6番のみが歌われる。校歌の歌詞には「開拓」「創作」といった三校是が盛り込まれ、4番の「科學の道に分け入りて」という歌詞では、創立以来の理化学教育の重視が謳われている。
5番の歌詞で「菅の荒野を飛ぶ鷲の羽風も高き飛騨の山」と、東京の学校であるにもかかわらず信濃国にまで及ぶのは、伊藤が信州の出身であり、信州が彼にとっての教育思想の源流だからである。
教育編集
最大の特長は、創立以来の理化学教育の振興である。伊藤長七の「原理は後にして先ず事実」との方針により、創立時より、物理・化学・生物・地学の各分野の専門実験室と専門教諭を置き、授業の約7割を、仮説と検証を繰り返す実験・実習に当てるという方針を戦前より守っている。入学時には白衣・実験用ゴーグル購入が義務付けられており、実験時に着用する。授業は、検定教科書よりも、学校独自のテキストやプリントを中心に展開する。生物の授業では、60年以上も改訂されながら受け継がれてきた「生物実習」という200ページを超える独自教科書が配布され、科学的考察力の養成を徹底している。 生徒による研究活動の成果や、内外の特別活動で大きな成果を多大な功績を残した生徒に対しては「伊藤長七賞」を贈っている。
- 小石川教養主義
伊藤長七が唱えた「全人的教養主義」を戦後も引き継ぎ、「小石川教養主義」と称している。文系・理系でクラス分けをすることなく、真の教養ある人間になるために、全ての科目を5年次までに学ぶという方針である。後期課程においては、全国の高等学校でほとんど消滅した地学の授業を全員が履修することがその象徴である。
- 特別講座
- 6年次には通常授業の半数が「特別講座」という広範な選択科目となる。生徒は、希望進路や興味に応じた演習科目や発展講座を選ぶことが出来る。「生命科学基礎実習」などの実験に特化した講座や、「アジア論概説」や「整数の性質」といった教養主義的なものまで多種多様である。さらに、長期休暇中には教諭による哲学書の輪読会といった課外講座が実施されることもあり、1年次から学年の枠を超えて興味のある者が集い、大学教養課程にまで踏み込んだ高度な講義が行われている。
- 小石川フィロソフィー
- 専門的な課題研究を行い学術論文を執筆する小石川独自の科目である。1年次から、文章表現、データ解析、数字処理、仮説検証、情報発信といった基礎を学び、4年次には、約15種類の講座に分かれて、1年間かけて研究テーマを探求し学術論文を完成させる。担当教員がそれぞれにつき、講座は、「日本近現代文学」「統計解析」「地学分野研究」「伊勢物語とその周辺」など多彩である。研究成果は海外を含む内外の発表会で発信する。
- 国際教育
- 満州・朝鮮・ヨーロッパ・カナダ・シベリアなど、数多くの海外渡航をした伊藤長七は、真の国際的教養の必要性を主張し、当時としては画期的な英会話やレコード教材を使った授業など、戦前では珍しい外国語を重視した教育を行っていた。複数のネイティブの教諭が常在しており、英文法やコミュニケーション力の一辺倒に偏らない総合的な語学力の習得を目指した教育が行われている。3年次ではオーストラリア・アデレードへの海外語学研修が2週間にわたって実施されており、ホームステイをして現地校の授業を受けることができる。その準備段階として、2年次に国内語学研修が行われるほか、英語暗唱コンテスト、英語でのメール交換などが実施されている。また、5年次にもシンガポールへの海外修学旅行が実施される。その他、後期生の希望者は第二外国語として中国語やフランス語、ドイツ語を選択し、本格的に学ぶことができる。
行事編集
芸能祭・体育祭・創作展の三つが三大行事である。学生が行事に専念できるよう、伝統的に9月中旬〜下旬に集中的に開催され、この時期は「行事週間」と呼ばれている。
この期間中は通常授業が一切行われず、伊藤長七が打ち立てた「立志・開拓・創作」の校是の下、完全に生徒の自主性に任された行事運営がなされる(行事運営委員会が中央委員会、いわゆる生徒自治会で設置され、予算、運営、決算から全て生徒が行う)。
三大行事のうち一般人が観覧できるのは創作展のみとなっており、芸能祭・体育祭はOBOGや保護者以外原則非公開である。
- 芸能祭
- 1919年に学芸会が開催され、終戦直後に現在の名称になった。100年間続いている伝統行事であり、部活動団体や一般団体(バンドなど)が舞台上でライブパフォーマンス等を行う。比較的最近まで校内の体育館で開催されていたが、全生徒が見れにくく暑い会場のキャパシティなどの問題で外部開催するようになった。尚、旧日比谷公会堂(改修前)、文京シビック大ホール、練馬文化センターこぶしホールでの開催実績がある。
- 放送・文化委員で構成される芸能祭実行委員会が設置され、最優秀団体には「芸能祭大賞」が贈られる。
- 体育祭
- 運営は体育委員会。事前に予備大会が行われ、その得点が本大会での持ち点に加算される。:校庭で行われるため天候に左右されやすく、また行事週間は日本列島に台風が接近しやすい、予備日が一日しかない等の理由から中止になることがある。過去の例をみると体育館で大幅に競技を絞ったミニ体育祭が行われた事例がある。
- 創作展
- 運営は創作展実行委員会。1921年に伊藤長七が生徒の創作意欲を掻き立てるために創った学校行事であり、全国の学校文化祭の先駆けとして知られる。現在では各クラスがそれぞれ展示や演劇などを行う。演劇部や文芸部、化学研究会、音楽系部活(4つある)も部活動団体として展示や演奏をする。
- 光庭パネルと言われる発泡スチロール製の宣伝パネルが期間中吹き抜けに展示されていたが、現在は布製に変わっている。
- 3〜6年生は伝統的に(小石川高校時代から)クラス単位で演劇を上演し、1.2年生は展示を行う。最優秀作品には「創作大賞」が贈られる。
- 後夜祭
- 運営主体は中央委員会。小石川高校時代には、「今日もチェリオが飲めるのは創作展のおかげです」「そば屋」という掛け声とともに校庭を駆け回ったりお菓子(チョコ)を交換することもあったそうだが現在その風習は失われ、芸能祭大賞・創作展大賞など各部門の上位入賞グループ・クラスを主催委員会の幹部が表彰する行事となっている。例年創作展の二日目の夕方下校時刻過ぎにかけて行われていたが、最近創作展片付け日(翌日)行われるようになった。:後夜祭団体と呼称される芸能祭に出演していない団体の出演もある。これは創作展二日目の票の集計の時間稼ぎの意味合いもあったが、現在に至っても続いている。
- 芸能祭大賞に選ばれた団体は再演も行う。過去には後夜祭団体として先生方の演奏も存在した。
生徒自治会編集
- 生徒総会
- 自主自立の観点と、生徒自治会を中心に生徒が全ての運営を行うことから、生徒は学校運営に関して盛んに発言をする。高校から中等教育学校に移行しても残り、前期生(中学生)も参加している。 また、目安箱のようなものも設置されており、生徒は無記名で投書することができる。
学校関係者と組織編集
関連団体編集
- 紫友同窓会
- 一般財団法人紫友会 : 小石川の教育環境の充実を目的とした財団法人。伊藤長七の私財や寄付により発足した。
学校関係者一覧編集
交通編集
関連項目編集
脚注編集
- ^ 矢崎秀彦『寒水 伊藤長七伝』、鳥影社、2003年
- ^ “初代校長伊藤長七について 男女共教”. 紫友同窓会. 2016年10月24日閲覧。
- ^ “赤壁の家と法禅寺~夏期転地修養隊の主宿泊先~”. 按針亭. 2016年10月24日閲覧。
- ^ “初代校長伊藤長七について 世界を駆ける、伊藤長七”. 紫友同窓会. 2016年10月24日閲覧。
- ^ “平成22年度 東京都公立学校一覧”. 東京都教育委員会. 2016年10月24日閲覧。