南禅院

京都市左京区にある南禅寺の塔頭

南禅院(なんぜんいん)は、京都市左京区南禅寺福地町にある臨済宗南禅寺派寺院大本山南禅寺塔頭本尊亀山法皇像。南禅寺の発祥地といわれている。門前には琵琶湖疏水事業の一環として建設された水路閣が通る。

南禅院
庭園「曹源池」
所在地 京都府京都市左京区南禅寺福地町86
位置 北緯35度0分37.08秒 東経135度47分37.93秒 / 北緯35.0103000度 東経135.7938694度 / 35.0103000; 135.7938694座標: 北緯35度0分37.08秒 東経135度47分37.93秒 / 北緯35.0103000度 東経135.7938694度 / 35.0103000; 135.7938694
宗派 臨済宗南禅寺派
寺格 南禅寺塔頭
本尊 亀山法皇
創建年 弘安10年(1287年
開山 無関普門(大明国師)
開基 亀山法皇
中興年 元禄16年(1703年
中興 桂昌院
文化財 木造亀山法皇坐像、木造一山一寧坐像(重要文化財
庭園(国の史跡名勝
法人番号 3130005001093 ウィキデータを編集
テンプレートを表示
門前の水路閣
方丈
亀山法皇廟所

歴史

編集

文永元年(1264年)、亀山天皇禅林寺の南側にあるこの地に、離宮・禅林寺殿を建てた。離宮は「上の御所」(上の宮)と「下の御所」(下の宮)に分かれており、弘安10年(1287年)に亀山上皇によって、「上の御所」に持仏堂の南禅院が建立されている。

正応2年(1289年)、亀山上皇はこの地で出家して法皇となると、正応4年(1291年)に離宮・禅林寺殿を無関普門を開山として寺院化させ、龍安山禅林禅寺と名付けた。その後、禅林禅寺は規模を拡大させて名称も南禅寺と改めると、発祥の地であった持仏堂の南禅院はその塔頭とされた。

明徳4年(1393年)に焼失し、応永27年(1420年)に北山御所の寝殿を移築するが、文安4年(1447年)の南禅寺大火で再び焼失した。応仁の乱以後は荒廃していたが、元禄16年(1703年)に桂昌院徳川綱吉の母)と円成院禅尼(木下利三の縁者)によって再興された[1]

1888年明治21年)には南禅院の前に琵琶湖疏水を流す水路閣が建てられている。

1937年昭和12年)には将棋坂田三吉木村義雄の対局が南禅院で行われている。

境内

編集
  • 方丈 - 本堂でもある。元禄16年(1703年)に桂昌院と円成院禅尼によって再建された。内部の襖絵は狩野常信とその子周信岑信によるものである。
  • 方丈前庭
  • 茶室「龍淵窟」 - 大正時代の築。
  • 庫裏
  • 庭園「曹源池」(国の史跡名勝) - 鎌倉時代亀山上皇が自ら作庭し、夢窓疎石が完成させたと伝わる池泉回遊式庭園。鎌倉時代に作られた庭園であり、京都で一番古いものである。京都三名勝史跡庭園(他には天龍寺庭園、西芳寺庭園)の一つ。
  • 亀山法皇廟所 - 庭園の東南隅に建つ廟で、亀山法皇の遺言により分骨された遺骨が埋葬されている。現在は宮内庁の管理となっている。文久の修陵の際には、当廟所は西本願寺の資金で修復された。
  • 一山一寧の墓
  • 勅使門

文化財

編集

重要文化財

編集
  • 木造亀山法皇坐像 - 南禅寺の開基亀山法皇の肖像彫刻で、現存する天皇の肖像彫刻としては最古のものである。
  • 木造一山一寧坐像 - 皇帝の使節として来日し、鎌倉建長寺円覚寺を経て南禅寺の第三世住持となった一山一寧(いっさんいちねい)の頂相彫刻で、一山の没後間もない頃に制作されたものと推定される。一山の肖像で中世にさかのぼる唯一の例であり、元は一山の塔所の大雲庵に伝来した[2]

国の史跡・名勝

編集
  • 庭園

アクセス

編集

脚注

編集
  1. ^ 『京の禅寺をたずねる』、p.26; 『図説日本の史跡 6 中世』、p.282
  2. ^ 「新指定の文化財」『月刊文化財』297号、第一法規、1988

参考文献

編集
  • 寺前浄因監修『京の禅寺をたずねる』、淡交社、2000
  • 『図説日本の史跡 6 中世』、同朋舎、1991