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原田 宗資(はらだ むねすけ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将仙台藩伊達家重臣。

 
原田宗資
時代 安土桃山時代から江戸時代初期
生誕 天正10年(1582年
死没 元和9年(1623年
改名 桑折弁慶→原田宗資
別名 左馬助、甲斐
主君 伊達政宗
仙台藩
氏族 桑折氏→原田氏
父母 父:桑折宗長
養父:原田宗時
兄弟 桑折政長宗資、女子(石母田景頼室)
正室:伊達政宗の娘・津多
宗輔、女子(梁川宗元室→上遠野守秀室)、女子(飯坂宗長室)

目次

生涯編集

天正10年(1582年)、伊達氏家臣・桑折宗長の子として生まれる[1]。幼名は弁慶

文禄2年(1593年)7月、文禄の役に従軍していた従兄・原田宗時対馬にて病死すると、主君・伊達政宗の命で原田氏を継いで牡鹿郡大瓜領主となり、文禄4年(1595年)8月24日の秀次事件に際して認められた在京の重臣19人による連判状には父・宗長と共に署名している。

慶長5年(1600年)6月、政宗は徳川家康の命令により上杉景勝討伐に参加するため、5年ぶりに領国への帰還を許された。しかし、政宗一行が上杉領を通らずに帰国するためには、相馬領を通過する必要が有ったが、相馬氏とは天正16年(1588年)の郡山合戦以来の根深い対立関係があり、相馬家中にはこの機を逃さず政宗を殺すべきという意見も多く、このままでは無事に本国へ帰還することは不可能であったため、政宗は宗資に相馬方との折衝を命じる。宗資は相馬氏重臣・水谷胤重と会談して家中の説得を依頼し、その結果、相馬義胤から領内通過の許可を得ることに成功、一行は無事に本国に帰還することができた。

慶長11年(1606年)12月、政宗の長女・五郎八姫松平忠輝との婚礼の際には、貝桶渡しの役を務め、慶長20年(1615年)には大坂夏の陣に従軍して多くの首級を挙げ、同年軍功により4,000石に加増されて柴田郡船岡城主となった。

元和9年(1623年)6月14日、仙台に於いて病死。享年42。この後、嫡子・雅楽(後の宗輔)5歳が家跡相続を命じられる。この宗輔が伊達騒動で有名な原田甲斐である。

系譜編集

     ┏山岸安長━━原田宗時
     ┃
桑折景長━╋原田宗政  
     ┃
     ┗桑折宗長━━原田宗資                     
             ┣━━━原田宗輔               
      伊達政宗 ┏津多       
       ┣━━━┫
      香の前  ┗亘理宗根

参考文献編集

  • 『柴田町史』通史篇1(宮城県柴田郡柴田町、1989年)
  • 平成『桑折町史』(福島県伊達郡桑折町)
    • 第1巻 通史編1(原始・古代・中世・近世1)2002年
    • 第5巻 資料編1(古代・中世・近世史料)1987年

脚注編集

  1. ^ 『桑折町史』資料編所載の「仙台桑折家系図」では、宗資は桑折景長の子で宗時の叔父となっているが、景長は天正5年(1577年)に既に死去している。