厳 震直(げん しんちょく、至正4年(1344年) - 建文4年9月12日[1]1402年10月8日))は、明代官僚政治家は子敏。本貫湖州烏程県

生涯 編集

洪武年間、富民として糧長に選ばれ、年に1万石の食糧を南京に運び入れ、期日に遅れることがなかった。洪武23年(1390年)、特別に通政司参議に任じられ、刑部郎中となった[2]。洪武25年(1392年)、工部右侍郎に転じた[3]。洪武26年(1393年)6月、工部尚書に進んだ。ときに朝廷では営建作事が盛んで、天下の工匠が南京に集められ、およそ20万戸あまりに達していた。震直は戸役ひとりごとにその姓名と官における作業所を登録し、仕事があるたびに登録を調べて交代でかれらを召し出したので、作事は順調に進められた。郷民がその弟甥を不法に訴えたことがあったが、洪武帝が震直に訊ねると、事情が具体的に明らかになり、洪武帝は訴えに騙されることなく、その弟甥を赦免した。12月、震直は罪に問われて御史に降格された。しばしば刑事事件の冤罪を晴らした。

洪武28年(1395年)、明軍が龍州趙宗寿を討つことになり、震直は礼部尚書の任亨泰とともにベトナム陳朝への使節をつとめ、陳日焜に討伐の理由を説明し、趙宗寿に協力したり、亡命を受け入れたりしないよう要請した[4]。帰国すると、利害を逐条で上奏し、洪武帝の意にかなった。ほどなく震直は桂林府興安県の霊渠の修築を命じられた。地勢を調査して湘江漓江の水を導き、5000丈あまりの溝を浚渫し、渼潭と龍母祠の土堤150丈あまりを築いた。さらには中江の石堤の高さを増やし、急流に閘門36か所を建造し、舟での交通の障害になる川原石を除去して、水運を開通した。

洪武30年(1397年)2月、震直は「かつて広東では塩85万あまりを広西に運び、商人を召し出して買わせていました。今では年に運ぶ塩の量はちょうど10分の1になっています。30万8千あまりを分けて広東に貯蔵し、別に商人を募集して広西の糧衛所の粟を運び入れて、広東の塩業を支え、江西南安府贛州府吉安府臨江府の4府で塩を売却すれば、便益となりましょう」と上疏した。洪武帝はその提案に従った。江西に広く塩が行きわたったのは、これが始まりであった。4月、震直は右都御史に抜擢された。8月、再び工部尚書となった。

建文年間、山東で食糧輸送を監督した。ほどなく致仕した。建文4年(1402年)、永楽帝が即位すると、召し出されて謁見を受け、工部尚書のまま山西の巡視を命じられた。9月、沢州にいたり、病没した。享年は59。著書に『遣興集』[5]があった。

脚注 編集

  1. ^ 『明太宗実録』巻12下, 洪武三十五年九月壬辰条による。
  2. ^ 談遷国榷』巻9
  3. ^ 王世貞『弇山堂別集』巻59
  4. ^ 明史』土司列伝十
  5. ^ 黄虞稷『千頃堂書目』巻17

参考文献 編集

  • 『明史』巻151 列伝第39