史 天倪(し てんげい、? - 1225年)は、モンゴル帝国に仕えた漢人軍閥の一人である。は和甫。析津府永清県の出身。曾祖父は史倫。祖父は史成珪。父は史秉直。弟は史天沢ら。子は史楫・史権ら。

概要編集

史天倪の祖先はかつて唐朝に仕え大官を輩出していたが、唐の滅亡後衰退して中央政界から離れ、農村の名家となった家系であった。史天倪の曾祖父の史倫は末子でありながら偶然金塊を発見したことで裕福になり、史倫の家系が史家の総領的地位についた。1211年からチンギス・カンによる金朝侵攻が始まると、各地で敗北を喫した金朝は遂に長城を突破され、華北平原はモンゴル軍の掠奪に晒されることになった。この頃史家の統領であった史秉直は掠奪を免れるためにいち早くモンゴル帝国に投降することを決め、1213年に陥落したばかりの涿州に赴き太師国王ムカリの軍に投降した。華北でも名家で知られた史家が抗戦の末の降伏ではなく、自発的に投降してきたことはモンゴル軍を大いに喜ばせ、これ以後史家はモンゴル帝国統治下の華北において有力諸侯の一つとして遇されるようになった[1]

史家の投降を受けたムカリは史秉直に自軍に従軍するよう依頼したが、史秉直は代わりに自らの長男史天倪が従軍することを提案した。史天倪はこの時28歳で英雄豪傑の風貌をもって知られ、道士が史天倪の風貌を見た時「後に王侯・宰相に封ぜられるだろう」と語ったという。勉学も好み、金朝の科挙も受けているが進士には落第し「大丈夫が立身する手段は文だけではない」と語ったとされる。史天倪を配下に加えたムカリは万人隊長(トゥメン)につけるとという厚遇を示し、史天倪もこの期待に応えて多くの武功を挙げた。かつて史天倪の曾祖父の史倫が亡くなった時、史倫を偲ぶ周囲の者達は史倫を祀る「清楽社」という相互扶助組織を形成していた。史天倪はこの清楽社の構成員から1万人を選抜して「清楽軍」と号し、族兄の史天祥を先鋒として向かうところ敵なしの活躍を見せたという[2]

その後も史天倪は華北の平定に従事したが[3]1225年武仙の起こした叛乱によって殺された[4]。史天倪が急死したことによって史家の家督は弟の史天沢が継ぐことになり、以後史天沢は漢人軍閥の中でも最も有力な将軍として活躍するようになった。

脚注編集

  1. ^ 『元史』巻147列伝34史天倪伝,「史天倪、字和甫、燕之永清人。曾祖倫、少好侠、因築室発土得金、始饒於財。金末、中原塗炭、乃建家塾、招徠学者、所蔵活豪士甚衆、以侠称於河朔。士族陥為奴虜者、輒出金贖之。甲子、歳大侵、発粟八万石賑饑者、士皆争附之。祖成珪、倜儻有父風。遭乱、盗賊四起、乃悉散其家財、唯存廩粟而已。父秉直、読書尚気義。癸酉、太師国王木華黎統兵南伐、所向残破、秉直聚族謀曰『方今国家喪乱、吾家百口、何以自保』。既而知降者皆得免、乃率里中老稚数千人、詣涿州軍門降。木華黎欲用秉直、秉直辞而薦其子、乃以天倪為万戸、而命秉直管領降人家属、屯覇州。秉直拊循有方、遠近聞而附者十餘万家。尋遷之漠北、降人道飢、秉直得所賜牛羊、悉分食之、多所全活。甲戌、従木華黎攻北京。乙亥、北京降、木華黎承制以烏野児為北京路都元帥、秉直行尚書六部事、主饋餉、軍中未嘗乏絶。庚寅、以老謝事、帰郷里。卒、年七十一。三子長天倪、次天安、次天澤」
  2. ^ 『元史』巻147列伝34史天倪伝,「天倪始生之夕、白気貫庭。成童、姿貌魁傑。有道士見而異之曰『封侯相也』。及長、好学、日誦千言。大安末、挙進士不第、乃歎曰『大丈夫立身、独以文乎哉。使吾遇荒鶏夜鳴、擁百万之衆、功名可唾手取也』。木華黎見而奇之。既以万戸統諸降卒、従木華黎略地三関已南、至於東海、所過城邑皆下。因進言於木華黎曰『金棄幽燕、遷都於汴、已失策矣。遼水東西諸郡、金之腹心也。我若得大寧以挖其喉襟、則金雖有遼陽、終不能保矣』。木華黎善之。先、倫卒時、河朔諸郡結清楽社四十餘、社近千人、歳時像倫而祠之。至是、天倪選其壮勇万人為義兵、号清楽軍、以従兄天祥為先鋒、所向無敵。分兵略三河・薊州、諸寨望風款服」
  3. ^ 『元史』巻147列伝34史天倪伝,「甲戌、朝太祖於燕之幄殿、所陳皆奇謀至計、大称旨、賜金符、授馬歩軍都統、管領二十四万戸。従木華黎攻高州、又従攻北京、皆不戦而克。乙亥、授右副都元帥、改賜金虎符。奉詔南征、囲平州、金経略使乞住降。進兵真定、所属部邑無不款附。而真定帥武仙、固守不下、遂移軍囲大名。衆謂城堅不可撃、天倪使攻其西南角、勁卒屡上屡卻、天倪先登、守者辟易、遂破其城。丙子、会木華黎兵於燕南、清州監軍王守約・平州推官合達、倶以城叛、連謀越海帰金、天倪追襲至楽安、合達以益都行省忙古兵來拒、敗之、殺守約、擒忙古、斬首万級。丁丑、徇山東諸郡、部卒有殺民豕者、立斬以徇、軍中粛然;遠近響応、知中山李明・趙州李瑀・邢州武貴・威州武振・磁州李平・洺州張立等、望風皆下。己卯、従木華黎徇河東、至絳州、其団楼甃以石、牢不可破。天倪命穴其旁、地虚、楼陥、遂抜之。木華黎喜、賞以繍衣・金鞍・名馬。庚辰、還軍真定、武仙降。木華黎承制以天倪為金紫光禄大夫・河北西路兵馬都元帥、行府事、仙副之。天倪乃言於木華黎曰『今中原粗定、而所過猶縦鈔掠、非王者弔民伐罪意也。且王奉天子命、為天下除暴、豈復效其所為乎』。王曰『善』。下令敢有剽虜者、以軍法従事」
  4. ^ 『元史』巻147列伝34史天倪伝,「辛巳、金懐州元帥王栄・潞州元帥裴守謙・澤州太守王珍皆以城降。壬午、攻済南水寨、破之。癸未、徇山西、遂克三関、不浹旬、定四十餘寨。兵至河衛、喜曰『河衛者、夷門之限也。河衛既破、則夷門不能守矣』。厳実以兵来会、請自攻河衛、天倪曰『合達・蒲瓦、亦勍敵也』。実曰『易與耳、保為公破之』。明日、実與蒲瓦兵遇於南門、合達兵自北奄至、実兵敗、竟為所執。天倪曰『合達以実帰汴、必以今夕』。急命馮存・杜必貴率壮士一千三百、伏延津柳渡。果夜縛実過延津、遇存等、与戦、敗之、実得脱帰、必貴戦死。未幾、帝命天倪回軍真定。甲申夏、大名総管彭義斌以宋兵犯河朔、天倪逆戦於恩州、義斌敗、入保大名。乙酉、師還、聞武仙之党拠西山腰水・鉄壁二寨以叛、天倪直搗其巣穴、尽掩殺之。仙怒、謀作乱、乃設宴邀天倪。有知其謀者、止天倪毋往、天倪不従、遂為仙所殺。天倪之赴真定也、秉直密誡之曰『観武仙之辞気、終不為我用、宜備之』。天倪曰『我以赤心待人、人或相負、天必不容、願無慮』。秉直乃携其孫楫・権還北京。至是、人服其先識。先是、天倪撃鞠夜帰、有大星隕馬前、有声、心悪之、果及禍。天倪死時、年三十九。妻程氏、聞乱、恐汚於賊、乃自殺。子五人、其三人尚幼、倶死於難、惟楫・権在」

参考文献編集

  • 池内功「史氏一族とモンゴルの金国経略」『中嶋先生古稀記念論集 上巻』汲戸書院、1980年
  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡〈上〉 軍事拡大の時代』講談社現代新書、1996年5月(杉山1996A)
  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡〈下〉 世界経営の時代』講談社現代新書、1996年6月(杉山1996B)
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 堤一昭「元朝江南行台の成立」『東洋史研究』第54巻4号、1996年