史格
概要
編集史格はモンゴル帝国に仕える漢人世侯の中でも最も有力とされる、史天沢の長男であった[2]。
モンゴル国アルハンガイ県イフタミル郡には漢文で書かれた墨書が現存しており、「丁酉歳秋八月□ 到此 真定史格」と記されている[3]。「丁酉歳」は1237年のことと考えられ、享年から逆算すると史格が10代の頃にモンゴル高原を訪れていたことが確認される[4]。同じく真定地方の漢人世侯の董文炳は「真定地方の領主である[5]ソルコクタニ・ベキが自らの領地の中から優秀な子弟を選んで仕えさせるよう要求したため、弟の董文用をカラコルムに派遣しソルコクタニに仕えさせた」との記録があり[6]、まさしく同じ理由で史格も質子(トルカク)としてモンゴル高原に派遣されたのではないかと考えられる[7]。これを裏付けるようにソルコクタニ(トルイ家)の本拠地はハンガイ山脈地方にあったと推定されており、史格の墨書がアルハンガイ県で発見されたこととも合致する[8]。
1252年(壬子)にモンケ・カアンが史天沢に衛城を賜った時、史格は節度使の地位を授けられており、この頃にはモンゴル高原から漢地に戻っていたようである[9]。モンケ・カアンの死後弟のクビライとアリクブケの間で帝位継承戦争が起こると史天沢はクビライの側につき、史格はアリクブケと行動をともにしてケムケムジュート(謙謙州)に逃れた[9]。内戦が勃発してから5年後、1264年にアリクブケが投降するとともに史格も父の下へ戻り、許されて鄧州の旧軍万戸を率いるよう命じられた[9]。史格がアリクブケと行動をともにしたのは、長年トルイ家のオルドに仕えてアリクブケと友好関係を築いていたためではないかと考えられる[9]。
クビライの下に帰参して後、史格は史天沢とともに南宋侵攻に携わるようになった。襄陽・樊城の戦いを経て南宋領侵攻が始まると、司令官の一人のアジュは25万の軍勢を5万ごとに分け、史格は5万の軍団の一つを指揮する将に抜擢された。史格が先鋒として長江を渡る時には南宋の将の程鵬飛がこれを阻まんとし、史格自ら3箇所の傷を負い200の兵を失う激戦が繰り広げられたが、最終的には程鵬飛を敗走させることに成功した。ただし、後に枢密院は史格が軽々しく進んだことで損害を出したことを問題視し罪に問おうとしたが、クビライは史格の立てた功績を考慮に入れ罪を薄くしている。その後、平章のエリク・カヤに従って潭州陥落に功績を挙げている[10]。
首都臨安の陥落によって南宋は事実上滅亡したが、陳宜中・張世傑らは益王趙昰(後の端宗)・広王趙昺(後の祥興帝)を擁して福州に逃れ南宋の復興を目指していた。史格はこれを追って広東・広西方面に侵攻し、賊の蘇仲の討伐などに功績を挙げた[11]。
一方、南宋朝廷の残党は端宗が亡くなると南宋最後の皇帝となる祥興帝を立て、広州に近い崖山を拠点としていた。張世傑らは雷州半島を支配するため雷州城を包囲したが、史格が欽州・廉州・高州・化州の糧食を雷州に運んだためやむなく包囲を解いて撤退した。この功績により史格は雷州に駐屯するよう命じられたが、崖山の戦いによって南宋残党が壊滅すると史格は鄧州の旧軍に帰還した。その後、参知政事・行広南西道宣慰使、資徳大夫・湖広行中書省右丞、江西右丞、湖広右丞、平章政事を歴任した後、58歳にして亡くなった[4][12]。
真定史氏
編集高祖某 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史倫 (季) | 佚名 (叔) | 佚名 (仲) | 佚名 (伯) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史成珪 | 佚名 | 佚名 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史進道 | 史秉直 | 史懐徳 | 佚名 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史天沢 | 史天安 | 史天倪 | 史天祥 | 史天瑞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史格 | 史枢 | 史楫 | 史権 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
史燿 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
編集- ^ 『元史』の列伝では南宋の滅亡(1279年)後、数度官位が上昇して58歳で亡くなったとのみ記される。よって、没年は1279年以後、生年は1222年以後のどこかと推定される(松田2013,4頁)。
- ^ 『元史』巻155列伝42史天沢伝,「史天沢字潤甫、秉直季子也。……子格、湖広行省平章政事。樟、真定順天新軍万戸。棣、衛輝路転運使。杠、湖広行省右丞。杞、淮東道廉訪使。梓、同知澧州。楷、同知南陽府。彬、中書左丞」
- ^ 松田2013,2頁
- ^ a b 松田2013,4頁
- ^ モンゴル帝国では征服した土地を征服に功績のあった者に分け与える慣習があり、真定地方はチンギス・カンの末子のトルイの領地=投下領とされていた。トルイは若くして亡くなったため、この頃はトルイの寡婦のソルコクタニがトルイ家の投下領の差配をしていた(松田2013,5頁)。
- ^ 『元史』巻148列伝35董文用伝,「文用字彦材、俊之第三子也。生十歳、父死、長兄文炳教諸弟有法。文用学問早成、弱冠試詞賦中選。時以真定藁城奉荘聖太后湯沐、庚戌、太后命択邑中子弟来上、文用始従文炳謁太后于和林城」
- ^ 松田2013,6頁
- ^ 松田2013,6-7頁
- ^ a b c d 松田2013,8頁
- ^ 『元史』巻155列伝42史天沢伝,「格字晋明。歳壬子、憲宗賜天沢以衛城、授格節度使。憲宗崩、格北留謙謙州、五年而帰、為鄧州旧軍万戸。既又代張弘範為亳州万戸、而以故所将鄧州旧軍授弘範。従攻襄陽、襄陽下、賜白金・衣裘・弓矢・鞍馬。衆軍渡江、平章阿朮将二十五万戸居前、毎五万戸択一人為帥統之、格居其一。格軍先渡、為宋将程鵬飛所却、格被三創、喪其師二百、尋復大戦、中流矢、鵬飛身亦被七創、乃敗走。其後枢密院奏格軽進、請罪之、帝念其功、而薄其罪。俾従平章阿里海牙攻潭州、砲激柵木、傷肩、矢貫其手、裹創先登、抜之、遂以軍民安撫留戍」
- ^ 『元史』巻155列伝42史天沢伝,「入覲、加定遠大将軍、賜以天沢所服玉帯。従攻静江、衆以轒轀自蔽鑿城、格所当、砲礌蔽地、車不可至、乃伺隙率衆攀堞、蟻附而上、抜之。徇広西十八州・広東三州、皆下。静江受兵之初、渓洞諸夷皆降雲南、格遣使諭之、来者五十州、雲南争之、事聞、詔聴格節度。陞広西宣撫使、改鎮国上将軍・広南西道宣慰使。宋亡、陳宜中・張世傑挾益王昰・広王昺拠福州、立益王、伝檄嶺海、欲復其地、詐言夏貴已復瀕江州郡。諸戍将以江路既絶、不可北帰、皆託計事還静江。格曰『君等亦為虚声所懼邪。待貴踰嶺、審不可北帰、吾与諸君取途雲南而帰、未為不可、敢輒棄戍哉』。行省議棄広東之肇慶・徳慶・封州、併兵戍梧州。格曰『棄地撤備、示敵以怯、不可、宜増兵戍之』。劇賊蘇仲、集潰卒、拠鎮龍山称王、劫掠於外、耕植於内、至秋畢穫。聞大兵至、則偽出降、官軍畏暑、不敢深入、横・象・賓・貴四州、皆被其害。格築堡於其界、守以土兵、令官軍火其廬柵、民踐其禾稼、仲窮蹙、遂降。益王餘衆破潯州。斬李辰・李福。静江北抵全・永、皆城守、羅飛囲永、凡七月不下。判官潘沢民間道来告急、格分兵赴之、殄其衆」
- ^ 『元史』巻155列伝42史天沢伝,「益王死、衛王立。趣広州、壁海中崖山、遣会淵子拠雷州、諭之降、不聴、進兵攻之、淵子奔碙洲。世傑将兵数万、欲復取雷州、戍将劉仲海撃走之。後悉衆来囲、城中絶糧、士以草為食、格漕欽・廉・高・化諸州糧以給之、世傑解囲去。詔格戍雷州。衛王死、広東・西悉平。張弘範請復将亳州軍。乃還格鄧州旧軍。拝参知政事・行広南西道宣慰使。入覲、拝資徳大夫・湖広行中書省右丞。移江西右丞、尋復為湖広右丞、進平章政事。卒、年五十八」
- ^ 『元史』巻155列伝42史天沢伝,「子燿、福建行省平章政事;栄、鄧州旧軍万戸」
参考文献
編集- 松田孝一「モンゴル国発見の史格の墨書について」『13、14世紀東アジア史料通信』第21号、2013年
- 『元史』巻147列伝34史天倪伝
- 『新元史』巻138列伝35史枢伝
- 『蒙兀児史記』巻54列伝36史枢伝