メインメニューを開く

吉川 潔(きっかわ きよし、1900年(明治33年)11月3日 - 1943年(昭和18年)11月25日)は、日本海軍軍人[2]。戦死後、二階級特進して海軍少将[3][4]広島県広島市段原町出身。海兵50期[2]

吉川潔
1900年11月3日 - 1943年11月25日
生誕 広島県 広島市
死没 ソロモン諸島ブカ島
軍歴 1922~1943
最終階級 海軍少将[1]
テンプレートを表示

目次

来歴編集

海軍士官として編集

父は漢学[5]。七男四女のうち、四男[2]。旧制広陵中学(現・広陵高等学校)を卒業後、海軍兵学校を受験するが身長と胸囲不足で不合格[5]。口惜しさから器械体操陸軍被服廠での積荷作業で体を鍛え上げた[5]。翌1919年(大正8年)兵学校(海兵50期)に合格[5]。兵学校時代は成績も下の方で「寡黙の吉川」といわれるほど目立たなかった[5]。「量も大切だが最後を決するのは質と精神だ」を口癖としていたという[5]

1922年(大正11年)6月1日、海軍兵学校を卒業し、同日附で少尉候補生[6][7]出雲型装甲巡洋艦1番艦「出雲」乗組[7]

1923年(大正12年)9月20日附で海軍少尉任官[6]、同日附で研究のため戦艦「長門」乗組みを命じられる[8]。12月7日、海軍砲術学校普通科入学[9]

翌年1924年(大正13年)4月、海軍砲術学校普通科を卒業すると同時に、海軍水雷学校入学[10]。7月4日、海軍水雷学校普通科学生教程を卒業[11]。同日附で通報艦「満州」に配属される[11]。 12月1日、吉川は「満州」から峯風型駆逐艦8番艦「汐風」へ転任[12]

1925年(大正14年)12月1日附で海軍中尉任官[6][13]。同日附で第3号掃海艇乗組を命じられる[13]

1927年(昭和2年)12月1日附で海軍大尉に昇進[6][14]。同日附で第十一号駆逐艦砲術長となる[14]。この後、吉川は終生駆逐艦と共に過ごす。翌年1928年(昭和3年)8月1日附で、日本海軍は第十一号駆逐艦を神風型駆逐艦6番艦「追風」と改名した[15]

1929年(昭和4年)2月1日附で、桃型駆逐艦」配属[16]。同年11月より、吉川は海軍水雷学校高等科に進んだ。

1930年(昭和5年)12月1日附で、吉川は江風型駆逐艦1番艦「江風」水雷長に補職[17]

1931年(昭和6年)11月1日、江風水雷長から睦月型駆逐艦8番艦「長月」水雷長へ転任[18]

1934年(昭和9年)11月15日、吉川(長月水雷長)は樅型駆逐艦」駆逐艦長に補職[19]

1935年(昭和10年)11月15日、吉川は海軍少佐に進級[20]。同日附で重巡洋艦「鳥海」水雷長を命じられる[20]

1936年(昭和11年)12月1日、鳥海水雷長から神風型駆逐艦3番艦「春風」駆逐艦長へ転任[21]。後任の鳥海水雷長は広瀬弘少佐となる[21][注 1]

1937年(昭和12年)11月15日、当時の弥生駆逐艦長折田常雄少佐が「敷波」駆逐艦長へ転任[注 2]。折田の後任として、吉川は睦月型駆逐艦3番艦「弥生」駆逐艦長に任命される[22]

吉川は翌年1938年(昭和13年)9月15日まで弥生艦長を務め、同日附で第24駆逐隊附となった[23]。10月5日、白露型駆逐艦8番艦「山風」駆逐艦長に補職[24]

1939年(昭和14年)10月15日附で、当時の江風駆逐艦長横井稔中佐が駆逐艦朝潮艦長に転じる[25]。この人事異動により、吉川(山風艦長)は白露型2隻(山風、江風)艦長兼務を命じられる[25]。 11月15日、豊島俊一少佐が「山風」駆逐艦長に任命され、吉川は江風駆逐艦長に専念することになった[26]

1940年(昭和15年)11月15日附で、海軍中佐に進級[27]。同日附で朝潮型駆逐艦の2番艦「大潮」駆逐艦長を命じられる[28][注 3]。吉川は40歳で太平洋戦争に臨む[29]。前述のように、多数の駆逐艦長を歴任。豪胆さ、偉ぶらない人柄、部下達に対する思いやりで信望を集めた[30]

太平洋戦争編集

1942年(昭和17年)2月19日バリ島沖海戦で吉川は最初の戦功を挙げた。ロンボック海峡を哨戒中に巡洋艦2、駆逐艦3からなるABDA艦隊連合軍)と交戦し、第8駆逐隊司令駆逐艦(駆逐隊司令阿部俊雄大佐)の「大潮」は、僚艦3隻(朝潮、満潮、荒潮)と共同でオランダ駆逐艦「ビートハイン」を撃沈した他、巡洋艦3隻中破、駆逐艦3隻小破の戦果を挙げた。宇垣纏連合艦隊参謀長は『バンダ海峡における第八驅逐隊の海戦振りは誠に見事なり。蘭巡洋艦二、蘭米驅逐艦三撃沈其の他二に大損害を與へたり。之をバンダ海峡夜戦と銘打つて世に問ふべきなり。一驅逐隊を以て誠に立派なる夜戦なり。司令は阿部弘毅少将の弟なりと云ふ』と第8駆逐隊を賞賛した[31][32]。捕虜収容所でオランダ水兵の捕虜処刑話が出たときは、大潮乗組員をひきいて慰問に訪れたという話が伝えられる[33]。 後日、山本五十六連合艦隊司令長官はバリ島沖海戦における第8駆逐隊の活躍に感状を与えた[34]

同年5月27日、吉川は白露型駆逐艦4番艦「夕立」駆逐艦長に着任した[35][36]。当時の「夕立」は第四水雷戦隊(司令官西村祥治少将:旗艦「由良」)の麾下で第2駆逐隊(駆逐隊司令橘正雄大佐。第1小隊〈村雨五月雨〉、第2小隊〈夕立春雨〉)を編制していた。 ミッドウェー海戦後の6月20日、西村少将は第四水雷戦隊司令官の職務を解かれる(6月25日附で第七戦隊司令官)[37][38]。後任の第四水雷戦隊司令官には高間完少将(当時、戦艦榛名艦長)が任命された[37]

ガダルカナル島の戦いがはじまると、「夕立」は第2駆逐隊僚艦に先駆けて駆逐艦輸送作戦(鼠輸送)に参加した。 同年9月4日ガダルカナル島に味方陸兵の揚陸任務を遂行した後、夜明けまで行動時間があると判断した吉川は、夕立以下駆逐艦3隻(夕立、初雪叢雲)を率いてルンガ泊地に進入、飛行場砲撃を敢行した[39]。さらに潜水艦による奇襲砲撃と勘違いして迎撃にきた駆逐艦改造のマンリー級高速輸送艦グレゴリー」と「リトル」と交戦し、2隻を撃沈した[40](夕立側は敷設巡洋艦、駆逐艦と判断)[41][42]。 リトルの戦死者22名・負傷44名、グレゴリー戦死者11名・負傷26名であった[43]

「夕立」の報告を受けた宇垣纏連合艦隊参謀長は陣中日記戦藻録で『昨夜驅逐艦夕立及二艦陸兵輸送に成功の歸途飛行場を砲撃(相當時間燃焼)中敵二艦を発見四十餘分に亘り砲撃戦の應砲少く之を撃沈せり。一艦は英敷設艦アベンチャ型にして後部上甲板に大爆發を誘起せり。夕立驅逐艦長は中佐にして彼の蘭印攻撃に於ける八驅逐隊大潮艦長として偉勲を奏せる士なるが今回又見事なる成果を収む。曩の二十四驅逐隊司令に比し霄壌の差あり。矢張り攻撃精神旺盛なるものよく勝を収む』と、吉川艦長を絶賛している[44][42]

10月15日、重巡2隻(鳥海衣笠)によるヘンダーソン基地艦砲射撃が実施されるのを横目に、第四水雷戦隊(秋月〔四水戦司令官高間少将旗艦〕、第2駆逐隊〈村雨、五月雨、夕立、春雨〉、第27駆逐隊〈時雨白露有明〉)は輸送船6隻を護衛してガダルカナル島揚陸作戦を実施した[45]。だが飛行場を完全に破壊することができず、日の出以降の空襲により輸送船3隻を喪失し、揚陸した物資も炎上させられた[46]。吉川艦長が指揮する第2駆逐隊第2小隊(夕立、春雨)は米軍機の離着陸のタイミングを見計らって飛行場砲撃と沖合退避を効果的に繰り返しており、目撃していた石塚(当時村雨水雷長)は「吉川艦長の戦機をつかむことのうまさは特別だった。1小隊(村雨、五月雨)も真似てみたが、うまくいかなかった」と脱帽している[45][42]

吉川の決断力は救援活動でも発揮された。10月25日南太平洋海戦の前哨戦として第四水雷戦隊(秋月〈高間少将旗艦〉、軽巡〈由良〉、第2駆逐隊〈村雨、五月雨、夕立、春雨〉)はガダルカナル島ルンガ泊地突入を目指したが、米軍機の波状攻撃をうけ「秋月」が中破、「由良」は炎上して航行不能となった。誘爆の危険性があって他艦が「由良」に近づけず艦載艇を派遣する中、「夕立」は唯一「由良」に接舷し、多数の由良乗組員を救助した[47]。乗組員を救助後、第2小隊(夕立、春雨)は「由良」を砲雷撃で処分した。

11月中旬、吉川率いる「夕立」は、第三次ソロモン海戦で活躍した[48]。11月12日夜半、第四水雷戦隊のうち第2駆逐隊第2小隊(夕立、春雨)は、ガダルカナル島飛行場砲撃を企図して出撃した挺身攻撃隊主力部隊(指揮官阿部弘毅第十一戦隊司令官、戦艦〈比叡霧島〉、第十戦隊〈長良天津風雪風照月〉)の右前方に位置していた[48]。ルンガ岬沖に待ち伏せしていたダニエル・J・キャラハン少将とノーマン・スコット少将の米艦隊(重巡2、軽巡3、駆逐艦8)を距離6000mに発見すると第2小隊(夕立、春雨)はそのまま突撃し、米艦隊の対応の不味さも手伝ってこれを大混乱に陥れた[49]。吉川は正念場にくると「ようそうろう(今の針路を直進せよ)」を主義としており、夕立艦橋において敵艦との距離を測りながらも沈黙したままだったという[50]。このあと「春雨」は米艦隊から離れるような行動をとったが、「夕立」は反転して混乱した米艦隊に再突入し、砲戦・魚雷戦により相当数の命中弾を与えた[51]。米艦隊の隊列の中に紛れ込んでからの吉川の号令は「砲撃はじめ、ドンドン撃て」だった[52]。ただし、闇夜かつ乱戦であったこともあり、正確な戦果は判然としない。結局、「夕立」は乱戦中に敵味方からの多数の弾丸を受け航行不能となる[49]。吉川も弾片で負傷した。「夕立」は敵味方識別灯を点灯したものの被弾により吹き飛ばされ、この『敵艦』に対し夕立砲術長が射撃を命じ、吉川艦長が是認する場面もあった[53][54]。のちに石塚(村雨水雷長)は『夕立の行動は常識外(非論理的)だったために戦果をあげ、常識的に行動した春雨は先頭艦(夕立)と戦果を失った。真似できるものではなく、下手に真似れば大失敗となる』と回想している[49]

戦闘が一段落したあと、第四水雷戦隊旗艦「朝雲」(司令官高間完少将)は大破した「夕立」に接近し、艦を放棄して乗組員はカッターボートでガダルカナル島へ上陸するよう指示した[55][56]。「朝雲」が去ったあとも吉川は「夕立」を救おうと応急修理を実施、さらに艦内の帆布やハンモックを艦上部に張り廻らして帆走によりガダルカナル島へ漂着しようとした[57]。だが復旧の見込みはなく日の出後の空襲も予想されるため、吉川艦長以下夕立乗組員(生存者207名、戦死39名)は救援にきた姉妹艦「五月雨」に移乗した[58][54]。放棄された「夕立」は「五月雨」によって雷撃処分されたとされるが[59]、実際には沈んでおらず、最終的に米重巡洋艦「ポートランド」に撃沈された。第四水雷戦隊は戦闘詳報で「夕立」の行動を以下のように評価している[60]

『夕立は緒戦に於て大胆沈着、よく大敵の側背に肉薄急襲し、夜戦部隊の真面目を発揮して大なる戦果を収むると共に、全軍の戦局に至大の影響を与へて、まず敵を大混乱に陥れ、且つ爾後最も勇敢に戦機を看破して、混乱に陥れる敵中を縦横無尽に奮戦せるは、当夜の大勝の端緒を作為せるものと云ふべく、駆逐艦長以下乗員は数次の戦闘に練磨せる精神力、術力を遺憾なく発揮せり。その功績は抜群なるものと認む』(原文は片仮名)[60][61]

戦死編集

同月末、吉川は横須賀に帰還。12月1日附で制式に夕立駆逐艦長の職務を解かれた[62]。 負傷もあり兵学校教官の内命を受けたがこれを辞退し、前線勤務を強く希望した[63]。その望みは叶えられ12月20日、平山敏夫少佐の後任として竣工間近だった夕雲型駆逐艦7番艦「大波」の艤装員長に補され[64]、29日には大波駆逐艦長となる[65]

1943年(昭和18年)1月20日附で「大波」は第二水雷戦隊・第31駆逐隊に編入される[66]。2月12日附で、第31駆逐隊司令として香川清登大佐が着任した[67]。第31駆逐隊(大波、清波長波巻波)は再びソロモン海域に出撃して輸送と護衛にあたった。

同年11月24日、第三水雷戦隊司令官伊集院松治少将の指揮下、第31駆逐隊司令香川清登大佐ひきいる日本軍駆逐艦部隊5隻は、輸送隊(指揮官山代勝守大佐:天霧夕霧卯月)、警戒隊(指揮官香川大佐:大波〔司令駆逐艦〕、巻波)という編制でブカ島への輸送作戦を実施する。これを迎撃すべく米艦隊が出現。ニューアイルランド島南端でのセントジョージ岬沖海戦にて、アーレイ・バーク大佐指揮の米駆逐艦隊の先制攻撃を受け、駆逐艦3隻(大波、巻波、夕霧)は一方的に撃沈された[63]。「大波」の生存者は一人も無かった[63]。吉川の戦死は、日米の技術格差を象徴するものとなった[68]

吉川は戦死後、駆逐艦長としては異例の二階級進級の栄誉を受け海軍少将に列せられた[69][注 4]

参考文献編集

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『叙位裁可書・昭和十九年・叙位巻十五・臨時叙位/海軍少将吉川潔叙位の件』。Ref.A12090456700。
    • 『叙位裁可書・昭和十九年・叙位巻十五・臨時叙位/故海軍少将吉川潔位階追陞の件』。Ref.A12090457400。
    • 『昭和3年達完/6月』。Ref.C12070089800。
    • 『昭和18年1月~4月内令1巻/昭和18年1月(2)』。Ref.C12070175100。
    • 『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030022500。
    • 『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030022600。
    • 『自.昭和17年8月30日~至.昭和17年9月27日 駆逐艦夕立戦闘詳報 「カ号作戦」』。Ref.C08030772700。
    • 『昭和17年11月12日 駆逐艦夕立戦闘詳報 第3次「ソロモン」海戦』。Ref.C08030773000。
    • 『昭和17年10月31日~昭和17年11月18日 第4水雷戦隊戦闘詳報(1)』。Ref.C08030115400。
    • 『昭和17年10月31日~昭和17年11月18日 第4水雷戦隊戦闘詳報(2)』。Ref.C08030115500。
    • 『昭和17年10月31日~昭和17年11月18日 第4水雷戦隊戦闘詳報(3)』。Ref.C08030115600。
    • 『昭和17年10月31日~昭和17年11月18日 第4水雷戦隊戦闘詳報(4)』。Ref.C08030115700。
  • 艦と人の回想譜/石渡幸二著/出版協同社/1994年
  • 石渡幸二「不滅の駆逐艦長吉川潔」『太平洋戦争の提督たち』中央公論社、1997年12月。ISBN 4-12-203014-5
  • 宇垣纏著、成瀬恭発行人『戦藻録 明治百年史叢書』原書房、1968年1月。
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年3月。
  • 木俣滋郎「18節 アメリカ高速輸送艦「グレゴリー」と「リトル」」『連合軍艦艇撃沈す 日本海軍が沈めた艦船21隻の航跡』光人社NF文庫、2013年8月。ISBN 978-4-7698-2794-8
  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編 17人の艦長が語った勝者の条件』光人社NF文庫、1995年12月。ISBN 4-7698-2106-9
    • 「戦術の極意」<駆逐艦「」艦長・石塚栄少佐の証言>(太平洋戦争時、村雨水雷長、北上水雷長、矢矧水雷長、槇艦長等)
  • 佐藤和正「吉川潔の場合 <卓抜な戦術を編み出した名艦長>」『戦争の素顔 一兵卒から提督まで』光人社、2000年5月。ISBN 4-7698-0958-1
  • 連合軍が恐れた五人の提督/佐藤和正著/光人社/2001年
  • 太平洋戦争海戦史/新人物往来社戦史室/新人物往来社/1994年
  • 須藤幸助『駆逐艦五月雨』朝日ソノラマ文庫、1988年。ISBN 4-257-17097-2
  • 文藝春秋編「椛島千蔵(当時夕立砲術長)「駆逐艦・夕立奮戦す -第三次ソロモン海戦」」『完本・太平洋戦争(上)』文藝春秋、1991年12月。ISBN 4-16-345920-0
  • 吉田俊雄「17章勇気 吉川潔中佐の「砲撃はじめ。ドンドン撃て」」『海軍人間語録 現代に生きる海軍式言行録』光人社、1985年6月。ISBN 4-7698-0271-4
  • 吉田俊雄『良い指揮官、良くない指揮官 14人の海軍トップを斬る!』光人社、1996年9月。ISBN 4-7698-0746-5

脚注編集

[ヘルプ]

注釈編集

  1. ^ 後日、広瀬は駆逐艦大潮艦長(大潮沈没時の艦長)、島風型島風初代艦長、第一水雷戦隊参謀等を歴任した。
  2. ^ 後日、折田は「浜風」初代艦長。秋月型駆逐艦「照月」初代駆逐艦長[22]。照月艦長として第三次ソロモン海戦に参加。
  3. ^ 吉川の大潮着任により、「大潮」と姉妹艦「夏雲」駆逐艦長を兼務していた塚本守太郎中佐は兼務を解かれた。吉川と塚本は海軍兵学校同期。
  4. ^ 駆逐艦長で戦死後海軍少将に任ぜられた者は他に守屋節司(野分駆逐艦長)と鈴木安厚(若月駆逐艦長)の2名いるが、二階級進級のうえ海軍少将となった者は吉川のみである。

出典編集

  1. ^ 故海軍少将吉川潔位階追陞の件 p.2』 アジア歴史資料センター Ref.A12090457400 
  2. ^ a b c #太平洋戦争の提督たち163頁
  3. ^ #太平洋戦争の提督たち159-160頁
  4. ^ 海軍少将吉川潔叙位の件 p.2』 アジア歴史資料センター Ref.A12090456700 
  5. ^ a b c d e f #戦争の素顔39頁
  6. ^ a b c d 現役海軍士官名簿. 昭和10年1月1日調。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1905470 p.107 大尉2.12.1 中尉14.12.1 少尉12.9.20 出身11.6.1(少尉候補生)
  7. ^ a b 大正11年6月2日(金)官報第2949号。国立国会図書館デジタルコレクション。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955066 p.15(原文61p一段目)
  8. ^ 大正12年10月1日(月)官報第3333号。国立国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955478 p.10(原文19p中段)
  9. ^ 大正12年12月8日(土)官報第3389号。国立国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955709 p.6(原文123p上段)免長門乗組、p.7砲術学校普通科学生
  10. ^ 大正13年4月4日(金)官報第3481号。国立国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955629 p.5
  11. ^ a b 大正13年7月7日(月)官報第3561号。国立国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955709 p.5卒業(原文116p下段)、満州乗組(原文117p上段)
  12. ^ 大正13年12月2日(火)官報第3468号。国立国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2955832 p.16(原文62p下段)
  13. ^ a b 大正14年12月2日(水)官報第3982号。国立国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2956132 p.5(原文41p、上段中尉任官)、p.14(汐風乗組免職、補3号掃海艇乗組)
  14. ^ a b 昭和2年12月2日(金)官報第279号。国立国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2956739 p.4(原文38p、上段大尉任官)、p.11第十一号駆逐艦砲術長補職
  15. ^ #達昭和3年6月pp.7-8『達第八十號 驅逐艦及掃海艇中左ノ通改名ス 本達ハ昭和三年八月一日ヨリ之ヲ施行ス|昭和三年六月二十日 海軍大臣岡田啓介|(略)第十一號驅逐艦 ヲ 驅逐艦 追風オヒテ トス』
  16. ^ 昭和4年2月2日(土)官報第627号。国立国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2957093 p.7
  17. ^ 昭和5年12月2日(火)官報第1179号。国立国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2957646 p.13
  18. ^ 昭和6年11月4日(水)官報第1455号。国立国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2957923 p.6
  19. ^ 昭和9年11月16日(金)官報第2364号。国立国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2958840 p.12
  20. ^ a b 昭和10年11月16日(土)官報第2663号。国立国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2959142 p.3少佐任官、p.12鳥海水雷長
  21. ^ a b 昭和11年12月2日(水)官報第2976号。国立国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2959458 p.24
  22. ^ a b 昭和12年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(号外)第91号 p.28折田免職、p.29吉川補職』 アジア歴史資料センター Ref.C13072072500 
  23. ^ 昭和13年9月15日(発令9月15日付)海軍辞令公報(部内限)第239号 p.21』 アジア歴史資料センター Ref.C13072074300 
  24. ^ 昭和13年10月5日(発令10月5日付)海軍辞令公報(部内限)第247号 pp.9-10』 アジア歴史資料センター Ref.C13072074400 
  25. ^ a b 昭和14年10月16日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第391号 p.22』 アジア歴史資料センター Ref.C13072076400 
  26. ^ 昭和14年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第402号 pp.49-50』 アジア歴史資料センター Ref.C13072076700 
  27. ^ 昭和15年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第554号 p.18』 アジア歴史資料センター Ref.C13072079400 
  28. ^ 昭和15年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第555号 p.13吉川免職、p.14塚本免職』 アジア歴史資料センター Ref.C13072079500 
  29. ^ #太平洋戦争の提督たち164頁
  30. ^ #良い指揮官P.230-231頁
  31. ^ #戦藻録(1968)86頁『二月廿一日土曜日晴上天気』
  32. ^ #太平洋戦争の提督たち166頁
  33. ^ #戦争の素顔41頁
  34. ^ 昭和18年1月27日(水)海軍公報(部内限定)第4301号 pp.14-15』 アジア歴史資料センター Ref.C12070429400 『○感状 第八驅逐隊 昭和十七年二月十九日「バリ」島急襲攻略作戰ニ際シ同日夜半「ロンボク」海峡ニ於テ我ガ上陸ヲ阻止セントシテ來襲セル敵巡洋艦二隻及驅逐艦五隻以上ト遭遇スルヤ寡勢克ク勇戰忽チ敵驅逐艦四隻ヲ撃沈シ同巡洋艦二隻及驅逐艦一隻ヲ撃破遁走セシメタルノミナラズ爾后此ノ戰闘ニ於テ損傷ヲ受ケタル僚艦ヲ曳航翌晝間ニ於ケル敵機ノ猛爆ヲ冒シテ之ヲ味方泊地ニ移シ遂ニ救出ノ目的ヲ達シタルハ其ノ武勲顕著ナリト認ム 仍テ竝ニ感状ヲ授與ス 昭和十七年十二月八日 聯合艦隊司令長官 山本五十六』
  35. ^ #戦争の素顔42頁
  36. ^ 昭和17年5月26日(発令5月25日付)海軍辞令公報(部内限)第867号 p.42』 アジア歴史資料センター Ref.C13072085500 
  37. ^ a b 昭和17年6月22日(発令6月20日付)海軍辞令公報(部内限)第886号 p.7』 アジア歴史資料センター Ref.C13072085900 
  38. ^ 昭和17年6月25日(発令6月25日付)海軍辞令公報(部内限)第889号 p.24』 アジア歴史資料センター Ref.C13072085900 
  39. ^ #S1709八艦隊日誌(2)p.14『第十九駆(綾波磯波缺)有明夕立初雪叢雲|9月4日2200|RXN陸兵898輸送 夕立初雪叢雲ハ巡洋艦1駆逐艦1ト交戦之ヲ撃沈セリ』
  40. ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 192-194痛快な小海戦(八月~九月)
  41. ^ #夕立カ号作戦p.14『五.戦果|砲撃シタル敵種別及機數 敷設巡洋艦一|砲戦回数一|使用弾薬 主砲一五〇|敵ニ与ヘタル損害 撃沈一/駆逐艦一|機銃三〇|撃沈一/飛行場|一|八七|其ノ他 一箇所大火災/航空機四〇以上|十数回|主砲二〇〇以上機銃二〇〇以上|不明』
  42. ^ a b c #戦争の素顔44-45頁
  43. ^ #連合軍艦艇撃沈す231-232頁『戦い終わって』
  44. ^ #戦藻録(1968)184頁
  45. ^ a b #佐藤 艦長続編(文庫)450頁『貴重な戦訓を目撃』
  46. ^ #S1709八艦隊日誌(2)p.43『輸送船(崎戸、九州、笹子、佐渡、南海及吾妻山丸)|10-15|14日「タサファロング」ニ入泊セル船団ハ15日0335以後ヨリ連続的敵機ノ爆撃ヲ受ケ0945吾妻山丸火災續イテ笹子山丸1120九州丸火災擱坐、1530残存船団帰途ニ就ク』
  47. ^ #五月雨(朝日1988)129頁
  48. ^ a b #佐藤 艦長続編(文庫)453-454頁『意表をついた奮戦』
  49. ^ a b c #佐藤 艦長続編(文庫)457-458頁
  50. ^ #海軍人間語録170頁
  51. ^ #完本太平洋戦争上289頁
  52. ^ #海軍人間語録171頁
  53. ^ #完本太平洋戦争上280頁
  54. ^ a b #戦争の素顔48頁
  55. ^ #S1711夕立詳報p.12『0110|4sd司令官|カッター二送ルニ付乗員ハ陸上ニ行ケ』
  56. ^ #S1711四水雷詳報(2)p.16『之ヨリ先「サボ」島ノ」108度5浬附近ニ於テ航行不能前部ヨリ大火災ヲ起シツツアリタル夕立ニ対シテ近接状況ヲ調査セルモ被害大ニシテ戦場離脱不能ト認メタルヲ以テ0017乗員ノ救難用トシテ朝雲ノ「カッター」二隻ヲ送リ乗員ハ機宜陸上ニ避難スベキヲ命ズ』
  57. ^ #完本太平洋戦争上292頁
  58. ^ #S1711夕立詳報p.12『0150|夕立|五月雨|万策盡キタルヲ以テ本艦ニ横付ケ乗員ヲ救助サレタシ|五月雨救援ニ来ル 消火復旧ノ見込ナシ』
  59. ^ #完本太平洋戦争上293頁
  60. ^ a b #太平洋戦争の提督たち169-170頁
  61. ^ #S1711四水雷詳報(4)pp.37-38『六.功績(ロ)』
  62. ^ 昭和17年12月2日(発令12月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1003号 p.48』 アジア歴史資料センター Ref.C13072088400 
  63. ^ a b c #戦争の素顔49頁
  64. ^ 昭和17年12月21日(発令12月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1017号 p.32』 アジア歴史資料センター Ref.C13072088600 
  65. ^ 昭和17年12月31日(発令12月29日付)海軍辞令公報(部内限)第1022号 p.16』 アジア歴史資料センター Ref.C13072088700 
  66. ^ #内令昭和18年1月(2)、p.25〔 内令第四十三號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年一月二十日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第三十一驅逐隊ノ項中「巻波」ノ下ニ「、大波」ヲ加フ 〕
  67. ^ 昭和18年2月15日(発令2月12日付)海軍辞令公報(部内限)第1053号 p.27』 アジア歴史資料センター Ref.C13072089700 
  68. ^ #太平洋戦争の提督たち162頁
  69. ^ 昭和19年5月1日(発令昭和18年11月24日付)海軍辞令公報(部内限)第1457号 p.31』 アジア歴史資料センター Ref.C13072098000 

関連項目編集