吉宜
(吉田宜から転送)
吉 宜(きち の よろし)は、奈良時代の貴族・医師。氏姓は吉(無姓)のち吉田連。子に古麻呂がいる。官位は正五位下・典薬頭。
時代 | 奈良時代 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
改名 | 恵俊→吉宜 |
官位 | 正五位下・典薬頭 |
主君 | 文武天皇→元明天皇→元正天皇→聖武天皇 |
氏族 | 吉(無姓)→吉田連 |
子 | 古麻呂 |
出自
編集吉氏(吉田連)は孝昭天皇の子孫である彦国葺命の後裔とされる、和邇氏族の皇別氏族。崇神朝にて彦国葺の孫の塩垂津彦命が任那の三己汶に派遣されるが、当地では宰のことを吉と称していたことから、子孫は吉姓を名乗った[1]。天智朝で、塩垂津の八世孫の達率・吉大尚と弟の少尚が再び日本に渡来し医術を伝えたという[2]。
経歴
編集元は僧で恵俊を名乗るが、文武天皇4年(700年)医術に優れることを理由に還俗して吉宜の氏名を与えられ、務広肆に叙せられる。和銅7年(714年)正六位下から二階昇進して従五位下に叙爵する。
のち、従五位上に昇叙され、養老5年(721年)官人の中から学業に優れ模範とすべき者に対して褒賞が行われた際、医術に優れるとして秦朝元らと共に宜の名が挙げられ、絁10疋・絹糸10絇・麻布20端・鍬20口を与えられている[3]。
聖武朝に入り、神亀元年(724年)大和国の田村里に居住していたことに因み[2]、一族の智首と共に吉(無姓)から吉田連に改姓する。天平2年(730年)には学業を後進に教授するために、3人の弟子を取って医術を勉強させるように命ぜられた[4]。のち、天平5年(733年)図書頭、天平10年(738年)典薬頭を歴任し、天平9年(737年)には正五位下に至る。
官歴
編集『続日本紀』による。