呉 成(ご せい、生年不詳 - 1433年)は、明代軍人本貫遼陽府遼陽県

生涯 編集

遼陽行省右丞の通伯の子として生まれた。もとの名は買驢といった。1387年洪武20年)、ナガチュ麾下の全国公観童が明に降ると、通伯と買驢の父子もともに降った。買驢は姓を呉、名を成と改めた。総旗となり、たびたび北伐に従軍した。1399年建文元年)、永平衛百戸に任じられた。燕王朱棣に降り、靖難の変に従軍して戦功を挙げ、都指揮僉事に累進した。

1402年(建文4年)、永楽帝(朱棣)が即位すると、呉成は都指揮使に任じられた。1410年(永楽8年)、永楽帝の漠北遠征に従い、オノン川オルジェイ・テムルと戦った。アルクタイに対する征戦に従い、朱栄の兵と合流して先鋒をつとめ、闊湾海まで追撃した。召還されると、都督僉事に進んだ。さらに三たび永楽帝の漠北遠征に従った。1425年洪熙元年)1月、後軍左都督に進んだ[1]。陽武侯薛禄に従って大松嶺に遠征し、先鋒をつとめて、功績を挙げた。7月、清平伯に封じられ、世券を与えられた[2]1426年宣徳元年)、漢王朱高煦が反乱を起こすと、呉成は楽安の征討に従い、薛禄とともに先鋒をつとめた。反乱が平定されると、呉成は興和に出向して守備した。呉成は狩猟を好んで防備を怠り、猟に出た隙に敵が城に侵入し、妻子を拉致して去った。宣徳帝はこの報告を受けたが、呉成を処罰しなかった。まもなくアルクタイが明に朝貢すると、呉成の家族の身柄が返還された。1427年(宣徳2年)5月、呉成は副総兵となり、食糧輸送を護衛して開平に赴いた[3]1428年(宣徳3年)9月、宣徳帝が北征すると、呉成は従軍してウリャンカイを寛河で破った。1429年(宣徳4年)2月、清平侯に爵位を進めた[4]1433年(宣徳8年)12月甲寅、死去した[5]。渠国公の位を追贈された。は壮勇といった。

子の呉忠が先だって死去していたため、呉忠の子の呉英が清平伯の爵位を嗣いだ。

脚注 編集

  1. ^ 談遷国榷』巻18
  2. ^ 『国榷』巻19
  3. ^ 『国榷』巻20
  4. ^ 『国榷』巻21
  5. ^ 『国榷』巻22

参考文献 編集

  • 明史』巻156 列伝第44