周 世昌(しゅう せいしょう、生没年不詳)は、中国北宋期の商人。平安時代中期の日本に来航した[1]

概要

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宋史』日本国伝に、大風によって日本に漂着していた建州の海商・周世昌が咸平5年(1002年和:長保4年)に帰国したという記事が見られる。世昌は日本人の「籐吉」という人物を連れて真宗に謁見し、彼とともに詩を詠んだ。同書によれば世昌は海難から約7年後に帰国したとあるが、咸平5年の7年前にあたる至道元年(995年和:長徳元年)には、朱仁聡林庭幹といった商人70人ほどが日本の若狭国に来航しており、世昌もその一員だったものと思われる。彼らは程なく隣国の越前国に移されたが、翌年に越前守として現地に赴任していた藤原為時が「大宋世昌」に贈った漢詩二篇が残されている[2][3]

六十客徒意態同 独推羌氏作才雄 来儀遠動煙村外 賓礼還慙水館中
画鼓雷奔天不雨 彩旗雲聳地生風 芳談日暮多残緒 羨以詩篇子細通

言語雖殊藻思同 才名其奈昔楊雄 更催郷涙秋夢後 暫慰羈情晩醉中
去国三季孤館月 帰程万里片帆風 嬰児生長母兄老 両地何時意緒通 — 『本朝麗藻』巻下 贈答部[3]

この詩はこの年の夏ごろに藤原為時が着任するにあたって、宋商らの滞在する「水館」[注釈 1]で宋商らが為時に謁見した際に詠まれたものである。姓の違いはあるものの、同名であるであることや詩文に通じているという共通点から、羌世昌は周世昌を指すとする説が有力である[5][6]。その後、日本側の諸史料より「羌世昌」の名は見られないが、同僚と見られる朱仁聡は咸平3年(1000年和:長保2年)までは滞日していたことがわかっているため、咸平5年の世昌の帰国は朱仁聡ら商団の離日を意味するものと考えられている[7]

脚注

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注釈

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  1. ^ 「水辺に建つ建物」の意味だが、『元亨釈書』が朱仁聡らが敦賀に滞在していたことから、かつて渤海使の滞在施設として使われていた松原客館を指すという説がある[4]

出典

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  1. ^ 『大日本史料』2-2, pp. 459–460.
  2. ^ 酒井 2019, pp. 31–33.
  3. ^ a b 『大日本史料』, p. 564.
  4. ^ 酒井 2019, pp. 33–34.
  5. ^ 酒井 2019, p. 33.
  6. ^ 田島 1993, p. 799.
  7. ^ 酒井 2019, pp. 32–33.

参考文献

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  • 酒井健治 著「平安時代中・後期における唐人来着と日本海―越前と若狭を中心に―」、大阪市立大学日本史学会 編『市大日本史』 22巻、大阪市立大学日本史学会、2019年。 
  • 田島公 著「平安中・後期の対外交流」、福井県 編『福井県史 通史編』 1巻《原始・古代》、福井県、1993年。 
  • 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第二編』 2巻、東京大学出版会、1968年。ISBN 978-4-13-090052-2