唐橋 在数(からはし ありかず)は、室町時代後期から戦国時代にかけての公家権中納言唐橋在治の子。官位正四位下大学頭

経歴編集

唐橋家摂関家九条家の家令であり、在数もまた「雑務執事」として九条家に仕えていたが、主人であった九条政基とは従兄弟同士でもあった。また、後土御門天皇六位蔵人・近臣や[1]嘉楽門院院司も務めていた[2][3]。在数には自筆の短冊が複数枚現存している。

九条政基父子による殺害編集

応仁の乱中、九条政基は近江国の坂本に避難していたが、公事用途200貫文を家司・在数に立て替えてもらい、その借銭の棒引きの条件として、文明4年(1472年)に残り少ない家領のなかから和泉国日根荘入山田(いりやまだ)村の年貢を息子・尚経の代まで在数に引き渡す約定となった。このように九条家の財政が破綻状態にあったことに加え、延徳元年(1489年)に在数の父・在治が死去すると、自らが直接九条家の家政を執ろうとする政基と、父の地位を継いで九条家家政を握ろうとする在数の対立に発展した。

この頃、在数は日根荘からの段銭徴収に失敗した穴埋めのため、日根荘を抵当として根来寺から融資を受けた。だが、その返済が滞ったことから、根来寺は抵当権の実行を図り、九条家は財政上きわめて重要な所領を喪失する危機に直面することになった。この責任を、両者は押し付け合うこととなる。

政基からすれば「九条家から在数に委任した荘園を運用している在数が、運用のために自身で勝手に作った借金」であるが、在数からすれば「九条家からの金銭調達要求のために、自身が委任されている“九条家の日根荘”から得ようとした収入が足りなかったため、日根荘を担保に他所から借りた。困窮する九条家の財政を何とかするために必要だった借金」、根来寺にとっては「九条家の家司が九条家運営の資金を調達するために、九条家の日根荘を担保に作った借金であり、返済目処が立たないなら日根荘を渡すべし」となる。

明応5年(1496年)正月7日に在数は関係が険悪化し出仕を止められていた九条邸に押しかけ、政基・尚経父子に対して返済の談判をしたが、これに腹を立てた政基父子により殺害された。

在数殺害後編集

家司とはいえ、在数は殿上人として天皇に直接仕える身として大学頭・大内記の官職に任じられており、公卿に昇りうる家格を有した堂上家の当主であった。そのため唐橋家と同じく菅原姓の公家(高辻長直など)は猛烈に抗議し、朝廷は公家間での殺人事件に対応を苦慮した。政基、尚経父子は勅勘を受け、朝廷への出仕を止められ九条家は家礼を持つことを禁じられた。父子への処分自体は軽微だったがその影響は少なくなく、赦免後も中御門宣胤のように九条家への不信・嫌悪から交際を断ったり、関係を離れていく公家がおり、九条家は他の摂家に比べて地位を低下させることになる。また、政基の子・義堯が10代将軍・足利義尹の猶子となったが、政基父子が在数の殺害で先帝の勅勘を蒙っていたこともあり、義尹は猶子の件を後柏原天皇に伺った上で決めており、在数殺害の一件が政基の晩年になってもなお尾を引いていた。

官歴編集

諸家伝』による。

系譜編集

脚注編集

注釈編集

  1. ^ 寛政譜』には次男とされているが、『唐橋家譜』では在名の子としており、年代的に考えても在名の子が正しいと考えられる。

出典編集

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  1. ^ 『親長卿記』文明4年8月17日条
  2. ^ 『親長卿記』長享2年3月9日条
  3. ^ 井原今朝男「室町・戦国期の天皇裁判権とふたつの官僚制」 - 国立歴史民俗博物館研究報告 第178集(PDF)2018年5月8日 閲覧

参考文献編集

  • 正宗敦夫編『諸家伝』日本古典全集刊行会、1940年