善野秀

幕末から明治にかけての武士、儒学者、政治家

善野 秀(ぜんの しゅう)は、幕末から明治時代にかけての武士儒学者政治家。本姓は高山[2]、旧名は(つかさ)、通称は勝右衛門、号は霞城[2]足利藩士、足利藩権大参事[2]

 
善野司
時代 江戸時代末期
生誕 文政5年(1825年
死没 明治29年(1896年7月
改名 善野秀
別名 勝右衛門、霞城
官位 足利藩権大参事
幕府 江戸幕府
主君 秋元志朝戸田忠文忠行
館林藩足利藩
氏族 高山氏→善野氏
父母 養父:善野勝右衛門
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善野司 / 善野秀
人物情報
別名 勝右衛門、霞城
生誕 高山司
文政5年(1825年
出羽国山形
死没 明治29年(1896年7月
栃木県栃木町
居住 栃木町足利町
学問
時代 江戸時代末期 - 明治時代初期
活動地域 下野国上野国
学派 佐藤一斎[1]
研究分野 儒学
影響を受けた人物 長戸得斎林檉宇
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生涯

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館林藩士の子として生まれる[1]天保14年(1843年)に江戸に遊学し、長戸得斎や林大学頭に師事[1][2]。31歳のとき足利藩士・善野勝右衛門家の養子に迎えられ[1]、勝右衛門を襲名。文久元年(1861年)、37歳で栃木町の栃木陣屋奉行となった[1]

元治元年(1864年)、栃木町は天狗党の乱において田中愿蔵の放火に遭い、大部分を焼失。慶応3年(1867年)11月には出流山事件が起こり、善野は陣屋の戦闘員を指揮して対策にあたった[3]

明治維新後、善野秀と改名し、足利藩権大参事を務める[1]。晩年、足利学校の遺跡の管理者となり、藩校「求道館」でも教鞭をとった[1][2]

引退後は栃木町に移り、72歳[1](満71歳)で死去した。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 長谷川、p.125
  2. ^ a b c d e 善野秀”. コトバンク. 2018年12月14日閲覧。
  3. ^ 長谷川、p.132

参考文献

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外部リンク

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