喜多見 勝忠(きたみ かつただ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将旗本武蔵江戸氏23代・喜多見氏初代当主。

 
喜多見勝忠
喜多見勝忠像
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄11年(1568年
死没 寛永4年12月26日1628年2月1日[1]
改名 江戸勝忠→喜多見勝忠→勝重
別名 五郎左衛門
官位 従五位下若狭守
幕府 江戸幕府
主君 蒔田吉良氏古河公方後北条氏)→徳川家康秀忠
氏族 武蔵江戸氏喜多見氏
父母 父:江戸頼忠
兄弟 勝忠、女子
正忠重恒重勝重長重治
養女:伊丹勝政(喜多見重勝娘)
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出自

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武蔵江戸氏は桓武平氏平将常を祖とする秩父氏の庶流。その23代当主・勝忠が江戸に入府した徳川家康の旗本となり、武蔵国喜多見村500石を安堵された際、喜多見に改姓した。

略歴

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勝忠は奥州吉良氏の家臣として、古河公方、次いで後北条氏に属し、天正18年(1590年)の小田原征伐では後北条氏と共に小田原城に籠城した。その後、江戸に入府した徳川家康の家臣となり、改姓した際に名も勝重に改めたとされる。九戸政実の乱では岩手沢まで出征し、関ヶ原の戦い大坂の陣に従軍した功績から元和2年(1616年)に近江国郡代となり、500石を加増された[2]

その後、摂津郡代に任じられ、元和4年(1618年)には堺奉行に補任され摂津・河内和泉の奉行を兼任する[3]。また、後陽成院の葬礼を務めるなどの功績を挙げたことから、元和7年(1621年)に1000石を加増され[2][4]、計2000石となる。勝忠が堺奉行に奉じてから10年の間、牢獄に訴訟を起こした者はなく、街には奸人も無く、市民善政を謳歌したとされる。江戸幕府2代将軍徳川秀忠南宗寺入来に際し、を勝忠の邸に枉げられ、勝忠は茶を献じて小袖及び黄金を下賜されたとされる。

寛永4年12月26日、堺奉行在職中に病死。享年60。

家督は次男の重恒が継いだ。2000石の所領のうち、1000石を重恒、残る1000石を三男の重勝が継いだ。孫の重政は2万石の譜代大名となって喜多見藩を立藩、喜多見家は大名家となった。

脚注

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  1. ^ 『史料綜覧』第12編之916 164頁
  2. ^ a b 『寛政重修諸家譜』
  3. ^ 大日本史料』第12編之30 17頁
  4. ^ 『大日本史料』第12編之40 2頁

出典

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  • 『東武実録』(四、七下)
  • 寛政重修諸家譜』(五百四十)
  • 『断家譜』(二十六幾)
先代
江戸頼忠
武蔵江戸氏歴代当主
次代
喜多見重恒