固倫和孝公主(こりんかこうこうしゅ、1775年2月2日1823年10月13日)は、乾隆帝の娘。母は惇妃の汪氏。嘉慶帝の異母妹。

生涯 編集

乾隆帝の第十皇女(末っ子)として生まれる。母の惇妃は30歳、父の乾隆帝は65歳の時の子であるゆえ、乾隆帝に特に可愛がられた。

成長するとともに容姿も性格も乾隆帝似で、また皇女であるが騎射を能くしたため、父帝が「男子であれば、必ずあなたを皇太子とする」と言ったという逸話が伝わる。乾隆帝の寵愛は惇妃になく、また宮女たちへの虐待を行ったことが乾隆帝の激怒を買い、一時に惇嬪に降格されたが、乾隆帝は愛娘に配慮し、間もなく惇嬪が惇妃に再進封ぜられたことから、娘を可愛がっている様子が窺える。

乾隆51年(1786年)に12歳で固倫和孝公主(清の嫡出公主の封爵)に封ぜられた。乾隆帝の寵臣ヘシェン(和珅)の子、同い年で幼馴染みのフェンシェンインデ(豊紳殷徳)に降嫁した。本封[1]のほか銀30万元を加えた。フェンシェンインデとの間には一男を産んだが、夭折した。その後豊紳殷徳との関係は破綻し、公主は心労が絶えなかった。

嘉慶4年1月3日1799年2月7日)に乾隆太上皇が崩御すると、嘉慶帝は親政をおこない、その際に同年1月11日、ヘシェンを罪20か条を出し弾劾した。ヘシェンには自尽が命ぜられたが、フェンシェンインデには固倫和孝公主が降嫁していたために、族滅は免れた。しかし豊紳殷徳は感謝するどころか、喪中も妾を連れて酒色に溺れ、公主を見返りだにしなくなった。その豊紳殷徳も、公主に先立って36歳で死去する。

道光3年(1823年)、49歳を一期に不幸な一生を終えた。道光帝は自ら霊前に拝礼した。

嫡出公主の「固倫」を封号として、恰も嫡出を凌駕したように庶民の伝説で囁かれたが、本当の嫡出である和敬公主と比べれば、封戸・封賞ともに劣ったのが事実であった。

脚注 編集

  1. ^ 一般的には、固倫公主の場合は銀12000元を与えられ、和碩公主の場合は銀10000元を与えられた。

参考文献 編集