外交革命(がいこうかくめい、: Umkehrung der Allianzen, : Révolution diplomatique, : Diplomatic Revolution)は、1756年に起こったヨーロッパの国際外交における重大な転換のことで、具体的には17世紀以来の対立関係・宿敵であったハプスブルク家ブルボン家が、七年戦争の前に同盟を結んだことを指す[1]。背景にはイギリスとフランスの200年間におよぶ世界的抗争(「第2次百年戦争」)と、ハプスブルク=ロートリンゲン家になってからのオーストリアと新興プロイセンとの抗争という、二つの対立軸がある。

ブルボン・ハプスブルク両家の確執 編集

 
マクシミリアンとマリーの結婚(19世紀画)

オーストリアとフランスの対立は、15世紀にさかのぼる。ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世ブルゴーニュの後継者マリーと結婚し、フランスを撃破したこと。またフランス側がマリーの死後フランス王ルイ11世の扇動によりブルゴーニュ公としての権限を失ったマクシミリアンの娘マルガレーテ(マルグリット)を誘拐同然にシャルル8世の王妃に据えておきながら、マクシミリアン1世のアンヌ・ド・ブルターニュとの再婚を阻みアンヌと結婚した上、マルグリットを人質として留め置いたことなどから、両国の確執が始まっている。あるいはマリーの父シャルル突進公とルイ11世、更にはヴァロワ・ブルゴーニュ家と仏王家との対立を婿入りしたハプスブルク家が受け継いだとも言える。

15世紀末葉から16世紀にかけては、イタリア戦争においてハプスブルク家のカール5世ヴァロワ家フランソワ1世が対立している。16世紀はじめ、カール5世がスペイン王カルロスとしてハプスブルク家から迎えられ、スペイン・ハプスブルク朝が始まると、フランスとしては東西のハプスブルク勢力から挟撃される状態となって、長いあいだ両家は何重にも婚姻を重ねつつも宿敵の関係にあった。フランスがブルボン朝に交代してからも、17世紀後半から18世紀初頭にかけてのルイ14世の侵略戦争もハプスブルク家領を脅かしていた。

17世紀前半の三十年戦争でも、フランスは旧教国でありながら反ハプスブルクの新教諸勢力とむすんだ。また、18世紀のスペイン継承戦争ポーランド継承戦争オーストリア継承戦争でも両国はたがいに敵同士として戦った[注釈 1]

「外交革命」の背景 編集

 
同盟の構造

ハプスブルク家 編集

1740年から1748年にかけてのオーストリア継承戦争で、オーストリア=ハプスブルク家は、新興のプロイセンに敗北してシュレージエン地方を喪失した。この敗北による衝撃は、それまでイタリア戦争三十年戦争スペイン継承戦争などを通じて抗争を続けてきたフランスより、主要な敵はプロイセンであるという認識を、当時のオーストリア宰相カウニッツなどに抱かせることになった。また、それまでの主要な同盟相手であったイギリスにも、この戦争における態度から不信感を抱いた。これらのことが、オーストリア=ハプスブルク家がフランス=ブルボン家へ接近を図る要因となった。このことが後にドイツ諸侯の失望を招き、ハプスブルク離れの遠因となるのである。

ブルボン家 編集

一方で、当初フランス=ブルボン家はオーストリア=ハプスブルク家との連携に積極的ではなかった。ブルボン家とハプスブルク家との連携に転じた理由は、以下のような国際関係の理解から求められる。

オーストリア継承戦争で、反ハプスブルク家のプロイセンをフランスは支援した。一方、新大陸インドなどでフランスと対立していたイギリスイギリス帝国)は、オーストリアを支援する姿勢を見せていた。従って、イギリスとプロイセンは対立関係にあった。こうした中、ドイツ・ハノーファー選帝侯国の出身であるイギリス国王ジョージ2世は、プロイセンがハノーファー領に危害を与えることを懸念した。プロイセンの牽制を図ったイギリスは、1755年サンクトペテルブルク協約で、プロイセンがハノーファー領を攻撃した場合、ロシアがプロイセンを攻撃することを取り決めた。これを恐れたプロイセンはイギリスに接近し、翌1756年1月16日第4次ウェストミンスター条約でハノーファー領を攻撃しないことを約した[2]

以上のような経緯から、フランスと対立関係にあるイギリスに接近していったプロイセンに対し、フランスは裏切られたという印象をえる。こうして、1756年5月1日ヴェルサイユ条約が成立し、ブルボン家(フランス)とハプスブルク家(オーストリア)の間に防御同盟が成立するにいたった。その帰結として、フランス王太子(後のルイ16世)とオーストリア皇女マリー・アントワネット(マリア・テレジアの娘)との婚姻に繋がった。

外交革命の推進 編集

「外交革命」を推進したのは、マリア・テレジアの信任厚いカウニッツ伯である。カウニッツはオーストリア継承戦争後に駐仏大使として赴任し、ルイ15世の宮廷で実力をふるっていた王の愛妾ポンパドゥール夫人を動かして仏墺同盟に踏み切らせた。

影響と歴史的意義 編集

 
オーストリア皇女時代のマリー・アントワネット

17世紀以来、ブルボン家(フランス)にとって最大の敵はハプスブルク家(オーストリア)と考えられていた[1]。そのため、フランス外交の基本路線は、ドイツやイタリアの諸国、ポーランドスウェーデンオスマン帝国というオーストリアに隣接する国との間で同盟関係を結び、オーストリア=ハプスブルク家を牽制し、あるいは場合によっては武力を行使するというものであった。「外交革命」はこうした、1世紀以上にわたって続いた国際関係の基本的枠組みに重大な変更をもたらした。そこには、植民地と貿易をめぐるイギリスとの長期にわたる対立があった。また、プロイセンの台頭も両国にとっては懸念されるところであった。「外交革命」後に起こった七年戦争では、ブルボン・ハプスブルクの両家が同盟関係をむすび、イギリス・プロイセンと戦ったのである[1]

ここにおいて、反ハプスブルク家のもとに周辺諸国が連携するという構造は完全に崩壊した。フランスにとって、オーストリアを挟撃するためにもポーランドは重要な友好国であったが、七年戦争後にプロイセンの主導でポーランド分割が行われるなど、従来からの国際秩序はいっそう再編が進むことになった。

1770年、フランス王太子ルイとマリー・アントワネットの結婚が成立している。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ オーストリア継承戦争では、フランス・オーストリア両国の対立を軸にプロイセンがフランスと結んでオーストリアを攻撃、植民地でフランスと対立していたイギリスがオーストリアを支援するという関係が成立した。

出典 編集

  1. ^ a b c 大野(1975)p.471
  2. ^ 有坂(2004)p.70

参考文献 編集

  • 有坂純「フリードリヒ大王の七年戦争」『歴史群像』、学習研究社、2004年4月。 
  • 大野真弓『世界の歴史8 絶対君主と人民』中央公論社中公文庫〉、1975年2月。ISBN 4-265-04401-8 

関連項目 編集