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多田 武雄(ただ たけお、1890年10月7日 - 1953年3月3日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍中将

経歴編集

1890年10月7日、岩手県で盛岡中学校長・多田綱宏の二男として生まれる。盛岡中学から東京府立第一中学へ転校。府立一中を卒業後、海軍兵学校へ入校し、1912年(明治45年)7月、同校卒業(第40期)。海兵同期に、大西瀧治郎宇垣纏山口多聞福留繁岡新千田貞敏吉良俊一など。1913年(大正2年)12月、海軍少尉任官。

1918年(大正7年)12月、呉防備隊分隊長に就任するが、1919年(大正8年)4月、病気のため待命となる。1920年(大正9年)6月、軍令部出仕(第3班第5課)として復帰。1922年(大正11年)5月、「神威」分隊長となり、同年12月、井上良馨元帥副官兼軍令部副官に転じた。

1924年(大正13年)12月、「菊月」駆逐艦長に就任し[要出典]1925年(大正14年)12月、海軍少佐に昇進し「」駆逐艦長に着任。1926年(大正15年)4月、「」駆逐艦長に転じ、佐世保鎮守府付、海軍省人事局第2課局員を経て、1930年(昭和5年)12月、海軍中佐に進級。1933年(昭和8年)9月、練習艦隊参謀に発令され、1934年(昭和9年)10月、「鶴見」特務艦長に就任し、同年11月、海軍大佐に昇進した。

1935年(昭和10年)11月、人事局第2課長に転じた。1938年(昭和13年)11月、戦艦霧島」艦長に就任し、第3遣支艦隊参謀長、興亜院調査官(青島出張所長)出向などを経て、1940年(昭和15年)11月、海軍少将に進級。1941年(昭和16年)9月、第11航空艦隊第21航空戦隊司令官に発令され太平洋戦争開戦を迎えた。

台湾からフィリピン攻略戦において航空戦を戦い、その後、ラバウルに進出。その間、1空台南空3空の活躍で熾烈な航空戦を展開した。1942年(昭和17年)10月10日、南西方面艦隊第二南遣艦隊参謀長に就任。1943年(昭和18年)9月20日には第13航空艦隊参謀長も兼任する。同年11月1日、海軍中将に進んだ。1944年(昭和19年)に入ってからは、航空本部総務部長、更に海軍省軍務局長に栄転。

1944年9月5日、陸海技術運用委員会が設置され、佐藤賢了陸軍省軍務局長とともに副委員長を務めた。特殊奇襲兵器開発のために陸海民の科学技術の一体化が図られた[1]

井上成美が大将に進級後、大将の次官は例がないことを言い、「(この戦局に大将を作って何になりますか。)負けいくさ大将だけはやはり出来」という川柳に残して海軍次官を辞任。井上の後任として米内光政海相は多田を海軍次官に、大西瀧治郎を軍令部次長にそれぞれ充てた。1945年(昭和20年)5月15日から11月20日まで海軍次官を務めたが、米内に鈴木貫太郎東郷茂徳らが陸軍に感づかれないように密かに終戦工作を繰り広げていた中、穏健派だった多田は大西に焚き付けられ、豊田副武軍令部総長も含め最後は徹底抗戦派に与していた[2]。実質上最後の海軍次官を務め、敗戦後に予備役に編入された。

親族編集

出典編集

  1. ^ 戦史叢書87巻 陸軍航空兵器の開発・生産・補給 457頁
  2. ^ 『日本海軍錨揚ゲ!』(半藤一利阿川弘之PHP研究所、2003年8月6日) P216 ~ P219

参考文献編集

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。