大久保忠豊
大久保 忠豊(おおくぼ ただとよ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。徳川家康の家臣。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 天文12年(1543年) |
死没 | 天正14年3月8日(1586年4月26日) |
別名 | 通称:喜六郎 |
戒名 | 浄泰 |
墓所 | 妙国寺(愛知県岡崎市) |
主君 | 徳川家康 |
氏族 | 大久保氏 |
父母 | 大久保忠俊 |
兄弟 | 忠勝、忠政、本多重定室、忠吉、忠豊、忠益、忠直、黒柳正利室、蜂屋貞次室、忠岡、筧正則室、忠宗、大津時隆室 |
妻 | 内藤行清の娘 |
子 | 忠拠、甚五郎、安藤重信室、米津清勝室、川上久右衛門室、飯塚忠重室、小笠原直光室、忠尚 |
生涯
編集永禄3年(1560年)石ヶ瀬の合戦、十八町畷の合戦で活躍。永禄6年(1563年)三河一向一揆蜂起の際には一門ともども上和田砦に籠もって一揆軍をしばしば撃退した。翌年の東三河平定の軍にも加わり、以後も掛川城の戦い、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、諏訪原城の戦い、高天神城の戦い、天正壬午の乱、小牧・長久手の戦いなどに参戦する。晩年は榊原康政の与力となった。
出典
編集- 『寛政重修諸家譜』巻第703