大石 温良(おおいし あつよし、? - 嘉永2年6月27日1849年8月15日))は、江戸時代後期の武士安芸国広島藩士。旧赤穂藩国家老大石良雄の継来孫(血統は良雄の義弟[1]の女系昆孫)。断絶した広島藩の大石家を再興した。実父は横田正虎[2]。通称は(いわお)。

略歴 編集

先代大石良完が嗣子・良継に先立たれた状態で死去し、その父の先々代良尚も、病により実家の小山家に帰ったため大石家が断絶した。寛政9年(1797年)、温良は大石良雄の孫と称して召出されたが[3]、広島藩は系図の主張を疑問視し、小山流大石家の相続はできなかった。しかし、大石家が絶えるのを惜しんだ藩は、7月25日に、温良が別家として横田流大石家を立てるのは認めた。ただし、知行高500石に減じられ、馬廻組となる[4]。享和2年(1802年江戸詰を命じられる。

嘉永2年(1849年)に死去した。子は14子もあったが、ほとんどが早世しており、無事成長した3人の男子のうち正室(浅野左門娘)の子である次男良督に跡を継がせた。広島の鳳来山国泰寺に葬られた。良督のあと良知が萱野氏から入る。

昭和20年(1945年8月6日原爆投下で墓は全焼全壊した。

最後の大石家当主・大石多久造は明治22年(1889年)に亡くなり、横田大石氏も断絶している。泉岳寺には温良から多久造まで、大石家(横田流)歴代の墓がある[5]

脚注 編集

  1. ^ 大石良雄は祖父良欽の養子となっているため、小山良速は年上だが義理の弟になる。
  2. ^ 横田良遂と正虎が同一人物という説もあるが、両者には年数的に世代の隔離があり、温良の生誕年も不明である(後藤武夫伝「新撰大石系図」)。
  3. ^ 良雄は大三郎の誕生直後に亡くなり、また温良の生年は不明ながら大三郎の死亡より後であり辻褄が合わない。実父の正虎(良遂)は大石良恭の庶子で、広島藩士横田家の養子となっていたという説もあるが、それでも大石家はすでに四世代(大三郎と良尚の年齢差は32年、さらに良尚から3代は実子である)が経過しているため年数に矛盾がある(同「新撰大石系図」)。
  4. ^ 義士銘々傳より(発行:泉岳寺)
  5. ^ 泉岳寺 鎌田豊治「大石家の墓」(「忠臣蔵史蹟辞典」2008年、中央義士会)。

関連項目 編集

参考文献 編集

先代
再興
広島藩 再興大石家 当主
初代:1797年 - 1849年
次代
大石良督