泉岳寺
泉岳寺(せんがくじ)は、東京都港区高輪二丁目にある曹洞宗の寺院。青松寺・総泉寺とともに曹洞宗江戸三箇寺の1つに数えられる[2]。
泉岳寺 | |
---|---|
![]() 本堂(開山堂) (2019年4月14日撮影) | |
所在地 | 東京都港区高輪二丁目11番1号[1] |
位置 | 北緯35度38分15.8秒 東経139度44分10.6秒 / 北緯35.637722度 東経139.736278度座標: 北緯35度38分15.8秒 東経139度44分10.6秒 / 北緯35.637722度 東経139.736278度 |
山号 | 萬松山 |
宗派 | 曹洞宗 |
寺格 | 江戸三箇寺 |
本尊 | 釈迦如来 |
創建年 | 慶長17年(1612年) |
開基 | 門庵宗関、徳川家康(願主) |
文化財 | 浅野長矩・赤穂浪士墓(国の史跡) |
公式サイト | 曹洞宗 江戸三ヶ寺 萬松山 泉岳寺 |
法人番号 |
6010405001413 ![]() |
歴史編集
慶長17年(1612年)に徳川家康が外桜田(桜田門周辺)の地に門庵宗関を招いて創建した寺院。寛永18年(1641年)の寛永の大火で焼失したが、徳川家光の命で、長府毛利・笠間浅野・鹿沼朽木・丹羽・水谷の5大名により、現在の高輪の地で再建された。御手伝い普請の大名は菩提寺とする事で徳川への忠誠を示す。
(毛利綱元は江戸で没したにも関わらず、遺体を長府に送らせ赤穂義士との併葬を拒否。丹羽家は吉良義央の子孫が藩主になる以前に泉岳寺と絶縁、水谷家は浅野長矩に備中松山城を収公され旗本に転落後は使用していない。)
元禄14年(1701年)3月、松の廊下の刃傷により切腹した浅野長矩が、次いで元禄16年(1703年)2月、元禄赤穂事件で赤穂義士が葬られた。 長矩正室の瑤泉院(阿久里)、長矩実弟の浅野長広(浅野大学)、長広の代々子孫、大石家の墓所も当寺にある。
浅野大学家と大石大三郎家(小山流)、広島藩の大石別家(横田流)も断絶したが、瀬左衛門の家が赤穂藩(森家)大石宗家としてかつての主君や義士の祭祀を継承している。今も義士祭などに参加されている。
義士の討ち入り後、当時の住職・酬山が長矩の脇差(村正)や義士の所持品を売り払って収益を得たことに世間の批判が集まり、あわててこれらの品を買い戻しに走ったことがある[3]。それでもなお大半の遺品が散逸し、21世紀になってから発見されたりする刀剣が続出している[4]。
加えて、当該住職は怠惰で義士の墓所も放置してしまい、「泉岳寺の墓地には草が丈高く生い茂って、墓が並んでいるのも見えない」と同時代人の記録が残る[5]。徳川吉宗の治世までは、江戸の墓参者が殆ど無かったと書かれている[6]。「江戸開帳年表」にも1750年まで泉岳寺の記述は無い[7]。 江戸三座での歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』上演もあって、人が来るようになったので金銭を徴収することにし、金の無いものは門番が入れないようにした[8]。
また、細川家との関係悪化により、寄進された梵鐘を鐘楼から除去し、のちに寺から放出した[9]。(但し21世紀になって、細川重賢により処分された熊本藩邸の義士切腹地から欠けた皿が出土、細川綱利が義士墓に供えた遺品の可能性が指摘されている)。文化3年(1806年)の丙寅の大火(泉岳寺大火)で高輪の薩摩藩邸が全焼、島津家との関係も悪化した[10]。山号の萬松山は松平の松より(「松萬代に栄ゆる」の意)、寺号の泉岳寺は「源の泉、海岳に溢るる」と徳川(源氏長者)に由来するため、徳川の力が弱まると毛利家も支藩の菩提寺使用を止めている[注釈 1][注釈 2][11]。
1836年(天保3年)、梅庭和尚の勧進で中門が完成する(都史跡)。
幕末には高輪接遇所(英国公使館)[12]が泉岳寺の門前および境内にあったため、尊王攘夷の志士にしばしば攻撃された。攘夷の風潮の中、異国人を居住させたということで墓を杖や棒で殴打されるなどの被害が続き、浅野家以外の檀家であった大名の離去を招く[13]。
明治維新で、藩閥・反幕公卿の新政府(鍋島家も吉良の姻戚である)により荒廃を余儀なくされたが、住職・泰然は墓や義士像の周囲に柵(竹矢来)を設け、破壊から守った[14]。それでも浅野長矩と瑶泉院(阿久里)の墓は法名の一部が破損した。
1891年(明治24年)、『オッペケペー』で人気を博した川上音二郎は、赤穂義士の墓が荒れ果てているのを見て、貧者救済の名目で寄付をした。寺は「首洗いの井戸」を整備した[15]。当初は井戸の後方に川上の墓が建っていたが、今は檀家墓地に移されている。
大正に入ると圓頓住職が荒れた墓地を整備、煉瓦造りの宝物館(現在の義士木像館に相当)を創設した。1916年(大正5年)には中央義士会が誕生、泉岳寺と連携して義挙の公布に勤める。
1923年(大正12年)、関東大震災により建物や墓が倒壊。1945年(昭和20年)には本堂が焼失した。1953年(昭和28年)に本堂が再建される。
1993年(平成5年)、泉岳寺は迷惑電話が掛かってくること等により被害を被っているとして、泉岳寺駅の名称差し止めを求めて東京都を訴えた。1997年(平成9年)、最高裁判所において原告敗訴が確定した[16]。
2001年(平成13年)に赤穂義士記念館が装いも新たに落慶された。(下画像参照)
2020年(令和2年)、破損していた長矩と瑶泉院の墓の修復が完了した。現在、住友不動産による周辺の開発(中高層集合住宅の建設など)に反対している[17]。
境内編集
学寮編集
境内には学寮があり、後に吉祥寺の旃檀林学寮、青松寺の獅子窟学寮と統合して駒澤大学に発展したほか、現在でも僧侶は境内の学寮で共同生活を行いながら大学に通学している。
文化財編集
史跡(国指定)編集
- 浅野長矩墓および赤穂義士墓
- 元禄14年3月14日、江戸城中で吉良義央(上野介)に対し刃傷沙汰に及び、即日切腹となった赤穂藩主浅野長矩(内匠頭)の墓、及び、元禄15年12月14日、江戸本所の吉良屋敷に押し入って吉良の首級を上げ、翌年2月4日に切腹となったいわゆる赤穂浪士(泉岳寺では「赤穂義士」と呼んでいる)の墓である。
- 一般に赤穂浪士は「四十七士」と呼ばれるが、泉岳寺の赤穂義士墓地には討入り以前に自害した萱野重実(三平)の供養墓を含め48基の墓塔がある。48基のうち、この萱野三平と、遺骸を遺族が引き取ったため泉岳寺には埋葬されていない間光風(新六)、そして討入りに参加した浪士の中で唯一人切腹をまぬがれた寺坂信行(吉右衛門)の墓塔は、遺骸の埋葬を伴わない供養塔である。なお寺坂以外の浪士の戒名はすべて最初の文字が「刃」となっている[18]。
区登録編集
出典:[19]
- 山門
- 中門
- 浅野長矩及び赤穂浪士墓所門
ほかの墓・石碑など編集
- 大石家の墓 - 赤穂義士墓とは別に、良欽・良昭と良恭から大石家最後の当主・多久造[20]まで歴代の墓[注釈 3]がある。
- 浅野家の墓 - 同じく長広から長楽まで浅野大学家歴代の墓。
- 赤穂四十七義士碑 - 亀田鵬斎の書で1819年(文政2年)に建立[21]。現存の碑は1910年(明治43年)に原刻碑の拓本の影写をもとに再建されたもの[21]。
- 血染の梅・血染の石 - 浅野・大石らの介錯失敗により血が飛び散ったとする遺構[注釈 4]。ただし異説もある。
- 大石内蔵助良雄銅像
- 川上音二郎の墓
- 烈士喜剣碑 - 林靏梁(長孺)の撰文を1940年(昭和15年)に刻して建立された[22]。
- 筆供養之碑[23] - 林龍峡の揮毫。
- 大般若経供養塔[23]
- 沢木興道老師像
- 義商天野屋利兵衛浮圖碑[22]
- 高島嘉右衛門の墓碑 - 高島易断創始者の石碑[22]。
- 殉難戦死之碑 - 西南戦争戦死者の追悼碑で1878年(明治11年)に建立された原碑が倒壊したため1923年(大正12年)に再建された碑[24]。
- 芝高輪刑場跡[25] - 泉岳寺の南端に「高輪刑場跡地」を示す石碑と、移転された「高輪大木戸」の石垣の一部がある。
ほか多数。
左:大石良金(主税)墓
右:義士の十三回忌供養碑
イベント編集
毎年4月初旬と12月14日には泉岳寺義士祭が催されている。また境内に、赤穂義士ゆかりの品を所蔵している「赤穂義士記念館」がある。但し近年は自粛で休止の場合がある。
アクセス編集
脚注編集
出典編集
- ^ 川浪惇史 『江戸・東京石碑を歩く』心交社、2008年、12頁。
- ^ 泉岳寺公式HPの『泉岳寺の歴史』に「江戸時代当寺は曹洞宗の江戸三ヶ寺(青松寺・総泉寺と泉岳寺)の一つとして…」との記述がある。
- ^ 勝部真長1994『日本人的心情の回帰点 忠臣蔵と日本人』(PHP研究所)p.169-73 - 当時の住職、酬山の強欲振りとそれに対する社会から向けられた批判について詳しい記述あり。
- ^ 赤穂大石神社「近松勘六行重 吉良邸討入りで使用したと伝わる槍を子孫が奉納」赤穂民報(2010.12.13)
- ^ 宝井其角『類柑子』(宝永四年)刊
- ^ 菊岡沾涼『江戸砂子(えどすなご)』巻之五「荏原郡 三田 二本榎 高輪」享保一七年(一七三二)刊
- ^ 比留間尚『江戸町人の研究』第二巻
- ^ 敬順和尚「近頃まで浪士の古墓を見るものもなかりしに、去年より瓦葺門をたて墓守が一人銭六文を取りて見せたり」『遊歴雑記』文化九年(一八一二)
- ^ 駒澤大学名誉教授・廣瀬良弘『禅宗地方展開史の研究』など(金石文『曹洞宗全書』より)。明治に民間から海外に流出したとされる(ウイーン美術館)。
- ^ 上念司「経済で読み解く明治維新」第5章
- ^ 「長府毛利十四代記」(下関市立長府博物館)
- ^ 現在は跡地が泉岳寺前児童遊園となっている。
- ^ アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』にも、泉岳寺の境内に宿泊していたことや志士に狙われたことが書かれている。
- ^ 高須梅渓「随筆赤穂浪士」(モナス、1937年)
- ^ 現地石柵「川上音二郎之建立」刻字
- ^ 「泉岳寺」駅名は適法 地下鉄浅草線寺の敗訴確定. 中日新聞(中日新聞社)p.14(夕刊)(1997年2月13日)
- ^ 「泉岳寺 周辺地区を心配する会」公式web
- ^ 『図説日本の史跡 第8巻 近世近代2』、同朋舎、1991
- ^ 港区立郷土歴史館ホームページ
- ^ 泉岳寺 鎌田豊治「大石家の墓」(「忠臣蔵史蹟辞典」2008年、中央義士会)
- ^ a b 川浪惇史 『江戸・東京石碑を歩く』心交社、2008年、15頁。
- ^ a b c 川浪惇史 『江戸・東京石碑を歩く』心交社、2008年、15頁。
- ^ a b 川浪惇史 『江戸・東京石碑を歩く』心交社、2008年、14頁。
- ^ 川浪惇史 『江戸・東京石碑を歩く』心交社、2008年、17頁。
- ^ 『望海毎談』など。「寛永江戸切絵図」で刑場は北に接する泉岳寺の敷地より広い。「宝永江戸切絵図」には刑場が鈴ヶ森に移転後の跡地に「この近邊 高なはと云」と書かれている。
参考資料編集
- 藤田正著『「別れ」事例内なる赤穂浪士 : 江戸期武士集団の社会心理学的考察』
- 浦辺登『霊園から見た近代日本』弦書房、2011年、ISBN 978-4-86329-056-3