大貫 松三(おおぬき まつぞう、1906年10月3日 - 1982年8月31日)は、日本の画家洋画を専門とした人物であった。

大貫 松三
誕生日 (1906-10-03) 1906年10月3日
出生地 神奈川県愛甲郡愛川町
死没年 (1982-08-31) 1982年8月31日(75歳没)
死没地 神奈川県川崎市宮前区
国籍 日本の旗 日本
芸術分野 洋画
出身校 旧制東京美術学校西洋画科
活動期間 1928年 - 1982年
影響を受けた
芸術家
和田英作
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人物 編集

神奈川県愛甲郡愛川町出身。尋常高等半原小学校(現 愛川町立半原小学校)から旧制厚木中学校(現 神奈川県立厚木高等学校)を卒業[1]

1927年に旧制東京美術学校西洋画科へ入学し、和田英作に弟子入りする[1]。1928年、東京美術学校在学中に自作の「女と静物」を帝展(現在の日展)に出品し、入選する[1][2]。また東京美術学校学生のままで旧制厚木高等女学校(現 神奈川県立厚木東高等学校)の教員を務めたこともある[1][3]

1931年から1936年まで平塚高等女学校(現 神奈川県立平塚江南高等学校)にて教師を務めた[1]。1937年、第1回新文展に『子供達』を出品して特選を受賞する[4]

第二次世界大戦後の1949年に須田寿牛島憲之らと共に立軌会を結成する[1]。同年4月に和田侃が創刊した富山県作文協会編の『小学作文』と『中学作文』に表紙絵を提供している[5]

1950年代から1960年代にかけて全音楽譜出版社が発売する楽器を購入した各学校に対して、クラシック音楽家の肖像入りカレンダーを製作して“楽器のおまけ”として配布していたが、そのカレンダー製作に当たり、全音楽譜出版社創業者から依頼されてルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンヨハン・ゼバスティアン・バッハらの肖像画を描いたのは大貫その人であった[6]

1982年8月31日、胃癌のために聖マリアンナ医科大学病院にて没した[7]。75歳没。

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f [1]」『平成17年度 平塚市美術館年報』、平塚市美術館、8頁。 
  2. ^ 大貫 松三 「双輪」 Shozo Onuki 美術品販売 ギャラリー田辺
  3. ^ 平塚市美術館で大貫松三展開催中 愛川町出身の洋画家 厚木市民かわら版
  4. ^ 文部大臣賞と特選決まる『大阪毎日新聞』(昭和13年10月16日)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p665 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  5. ^ 『小学作文』、『中学作文』復刻版目次より。
  6. ^ NHK「チコちゃんに叱られる!」で当社商品にまつわるエピソードが紹介されました。 全音楽譜出版社
  7. ^ 大貫松三 東京文化財研究所