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天野 元祐(あまの もとすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将毛利氏の家臣。天野隆重の三男で、叔父である天野隆良の婿養子となる。

 
天野元祐
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文16年(1547年
死没 天正15年4月25日1587年6月1日
別名 通称:少輔三郎→彦四郎
官位 宮内少輔
主君 毛利元就隆元輝元
氏族 藤原南家工藤氏金明山天野氏
父母 父:天野隆重、母:天野興定の娘
養父:天野隆良
兄弟 元明武弘元祐元友元嘉元信
正室:天野隆良の娘
元重元長
女(天野元時室)、女(熊谷清直室)、女(林元次室)、女(田中元貞室)

出自編集

安芸天野氏は、藤原南家工藤氏の一族で安芸国に下向し国人化したもので、元祐の系統は天野政貞から始まる金明山天野氏にあたる。同じく安芸の国人である天野興次天野興定天野元定の一族の系統は生城山天野氏である。

生涯編集

天文16年(1547年)、大内氏に属する安芸国国人である天野隆重の三男として生まれる。

天文20年(1550年9月1日大寧寺の変大内義隆が自害した際に、元祐の父・隆重の弟である天野隆良も義隆に殉じた。隆良に男子はいなかったが、女子が1人いたため、毛利元就は隆良の娘を元祐に娶せ、婿養子として家督周防国吉敷郡大内村の内の60石の知行を元祐に継がせた。

元祐は元服後には父・隆重に従って出雲国月山富田城の在番を命じられ、また、天正2年(1574年)から天正3年(1575年)にかけての備中兵乱の後は、兄の元明と共に備中国松山城の在番となった。天正4年(1576年1月23日毛利輝元は元祐らの松山城在番の労を労い、備中国や美作国の情勢が落着した時には300貫の地を与えることを約束。翌日の1月24日には一先ず古瀬の内の100貫を与え、在番を終えた後に別所を与えるとした。また、元祐は度々軍功を挙げて感状を与えられている。

天正14年(1586年)から始まる豊臣秀吉九州平定に従軍したが、天正15年(1587年4月25日筑前国博多沖の船中で病死した。享年41。嫡男の元重は元祐の兄である元明の家を継いだため、次男の元長が元重から100石に知行を分与されて後を継いだ。

参考文献編集