太田資愛
太田 資愛(おおた すけよし)は、江戸時代中期から後期にかけての大名・老中。遠江国掛川藩2代藩主。掛川藩太田家6代。官位は従四位下・摂津守・備中守、侍従。
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 元文4年(1739年) |
死没 | 文化2年2月17日(1805年3月17日) |
戒名 | 大隆院殿道一日敞大居士 |
墓所 | 静岡県三島市の妙法華寺 |
官位 | 従四位下、摂津守、備中守、侍従 |
幕府 | 江戸幕府 奏者番、寺社奉行、若年寄、京都所司代、老中 |
主君 | 徳川家治→家斉 |
藩 | 遠江掛川藩主 |
氏族 | 太田氏 |
父母 | 父:太田資俊 |
兄弟 | 資愛、板倉勝志正室、久留島通祐正室、稲垣長以継室、内藤頼尚正室ら |
妻 | 鏐姫(牧野忠利の養女) |
子 | 資武、資順、資言、正子、木下俊懋正室ら |
生涯
編集先代藩主・太田資俊の次男。
幕府では、奏者番、寺社奉行、若年寄、京都所司代、老中を歴任した。学者松崎慊堂を藩の顧問として登用する。
年表
編集系譜
編集父母
- 太田資俊(父)
正室
- 鏐姫 ー 牧野忠利の養女
子女