奈良許知 麻呂(ならのこちの まろ、生没年不詳)は、奈良時代の人物。大和国添上郡(現在の奈良市一帯)の農民。

出自 編集

許知は朝鮮半島からの渡来氏族で、古代朝鮮語で「首長」を現す語とみられる。新羅では「己知」は人名の後につける称号として用いられている。『日本書紀』巻第十九には、には百済人己知部(こちふ)が「投化けり」(おのづからまうけり)とあり、倭国の添上郡の山村に住まわせたという話が語られている[1]。『新撰姓氏録』「大和国諸蕃」には、「己智」一族は「出自秦太子胡亥也」とあり、「三林公」・「長岡忌寸」・「山村忌寸」・「桜田連」も同祖としている。

播磨国風土記』には、飾磨郡に「巨智の里」があり

土は上の下なり。右、巨智(こち)等、始めて此の村に屋居(いへゐ)しき。故(かれ)、因りて名と為す。草上(くさかみ)(の村)といふ所以(ゆゑ)は、韓人(からびと)山村(やまむら)等が上祖(かみつおや)柞巨智賀那(なら の こち の かな)、此の地を謂ひて田を墾(は)りし時、一聚(ひとむら)の草あり、その根いたく臭かりき。故、草上と号(なづ)[2]

という地名由来説話が載せられている。

記録 編集

続日本紀』巻第六の語るところによると、麻呂は人となりが孝順で、人とつきあって怨みを受けることがなかった。かつて継母に讒言され、父の家に出入りすることができなくなったが、少しも怨む気色がなく、ますます孝養を尽くした。元明天皇はこれを表彰し、終身租税の負担を免除した、という[3]

この時代、孝順であることは表彰されるべきものであり、文武天皇の詔によると、「さかのぼって上は曽祖父から下は玄孫に至るまで、累代孝行を尽くす一家があれば、その戸の全員の賦役を免除し、家の門や里の入口に立て札を立てて掲示し、義家とする[4]」となっている。これは賦役令17の「孝子順孫条」によるものである。

天平14年11月の優婆塞貢進解に、「大養徳国添上郡仲戸郷於美里戸主奈良許知伊加都」とあり、麻呂の同族と想定される。『続紀』巻第二十九・巻第三十四には、それぞれ、山村許智人足[5]、山村許智大足[6]の名が現れており、同族と考えられる。また、『続日本後紀』巻第十三、承和10年12月条に、出羽国河辺郡の百姓奈良許知豊継らに「大滝宿禰」を賜ったとあり、「其先百済国人也」としている[7]

脚注 編集

  1. ^ 『日本書紀』欽明天皇元年2月条
  2. ^ 『播磨国風土記』飾磨郡巨智の里条
  3. ^ 『続日本紀』元明天皇、和銅7年11月4日条
  4. ^ 『続日本紀』文武天皇、大宝2年9月21日条
  5. ^ 『続日本紀』称徳天皇、神護景雲2年2月10日条
  6. ^ 『続日本紀』光仁天皇、宝亀8年7月15日条
  7. ^ 『続日本後紀』承和10年12月1日条

参考文献 編集

  • 『コンサイス日本人名辞典 改訂新版』p932(三省堂、1993年)
  • 『日本書紀』(三)、岩波文庫、1994年
  • 『日本書紀』全現代語訳(上)、講談社学術文庫宇治谷孟:訳、1988年
  • 『続日本紀』1・4 新日本古典文学大系12・15 岩波書店、1989年、1995年
  • 『続日本紀』全現代語訳(上)・(中)・(下)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1992年 - 1995年
  • 『続日本後紀』全現代語訳(下)、講談社学術文庫、森田悌:訳、2010年
  • 『風土記』、武田祐吉:編、岩波文庫、1937年
  • 『日本古代氏族事典』【新装版】佐伯有清:編、雄山閣、2015年

関連項目 編集