奈貴王(なきおう/なきのおおきみ、生年不詳 - 宝亀9年2月8日778年3月11日))は、奈良時代皇族。名は奈紀王奈癸王とも記される。系譜は明らかでないが天智天皇または天武天皇の曾孫か。官位従四位下侍従

経歴

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天平勝宝9歳(757年橘奈良麻呂の乱において、謀反実行時に敵側に加勢するのを防ぐために、橘奈良麻呂派の賀茂角足が事前に武勇に優れた者を屋敷に呼んで酒盛りをしたが、奈貴王は坂上苅田麻呂らの武人とともにこれに招待されている[1]。変終結後の8月に三世王の蔭位により无位から従五位下に直叙される。

淳仁朝では、内礼正大炊頭を経て、天平宝字7年(763年石見守に任ぜられて地方官に転じ、翌天平宝字8年(764年)従五位上に叙せられる。

称徳朝では、天平神護3年(767年大膳大夫神護景雲3年(769年正親正と京官を歴任し、神護景雲4年(770年)8月の称徳天皇崩御に際しては作山作司を務めている。

同年10月光仁天皇即位に伴って正五位下に叙せられると、宝亀2年(771年)正五位上、宝亀4年(773年従四位下と光仁朝前半に急速に昇進を果たした。宝亀3年(772年桑原王とともに、衣縫内親王の喪事を監護している[2]。宝亀9年(778年)2月8日卒去。最終官位侍従従四位下。

官歴

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続日本紀』による。

脚注

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  1. ^ 『続日本紀』天平宝字元年7月4日条
  2. ^ 『続日本紀』宝亀3年7月9日条

参考文献

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