奥澤 七事斎(おくざわ しちじさい、1809年文化)6年)[要出典] - 1865年7月28日慶応元年6月6日))は、幕末日本柔術家。諱は良重、字は三造、もしくは園蔵、 号は七事斎。

おくざわ しちじさい よししげ

奥澤七事斎良重
生誕 1809年[要出典]
文化)6年
[要出典]
日本の旗 日本 上野国山田郡鹽原村
死没 1865年7月28日
慶応元年6月6日
死因 獄中にて病死
墓地 法恩寺
山田郡鹽原村奥澤家墓地
別名 奥澤三造
職業 柔術家
流派 気楽流、戸田流
活動拠点 浅草花川戸道場 
子供 奥澤敬太郎(黒須(井上)敬太郎)
親戚 奥澤勘一(孫)
井上縫太郎(孫)
補足
奉納額(穴原薬師仁王門)天保9年(1845) 
奉納額(佐波郡釆女村、大國神社)文久元年(1861年)
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気楽流柔術14世[注釈 1]尊皇攘夷の動きにもかかわったが、そのために獄死した。

生涯 編集

上野国山田郡鹽原村穴原の生まれ。気楽流の飯塚臥龍斎五十嵐金弥斎藤武八郎らに師事し、免許皆伝(15世)。

後に、由良氏家臣となり、その後、江戸湯島に道場を開き、伊勢亀山藩家老で国学者近藤織部(近藤幸殖)に召出される。磐城平藩安藤信正に仕えた。後江戸浅草花川戸に道場を移し、戸田流を名乗る[1]

近隣の諸藩士や安藤対馬守の藩士の加藤木重教[2]など多くを集め、門弟 数百人余を育てる。そのため、奥澤七事斎の門人は、気楽流ではなく、戸田流と名乗る例が多い。

1860年正月(天保7年)には浅草浅草寺に、戸田越後守11代飯塚臥龍斎(外龍斎)源興義、斎藤武八郎源在寛伝来として、自らの名で戸田、無敵、気楽三流柔術の献額を行う。

嘉衛2年7月(1849)門人1名、安政6年(1859年)11月に門人の橋本左仲、長嶋平五郎、大川源三郎天神真楊流 磯道場と戸田流として試合を行い[1]。また万延元年(1860年)には大川源三郎が再び試合を行っており天神真楊流 磯道場との交流が盛んにあった[注釈 2]。文久2年(1862年)2月には大阪の佐々木道場(天神真楊流)での門人の出稽古などの記載があるが、いずれも戸田流を名乗って、天神真楊流との試合を行っている。

文久2年(1862年10月 攘夷督促勅使の江戸下向にあたり、朝廷が設置した国事御用掛 副使の姉小路公知に召し抱えられ朝廷 御用人、太刀を拝領した。子の奥澤敬太郎らとともに、上州新田郡出身の門弟らと尊王攘夷運動に加わる。 

文久3年(1863年)5月 朔平門外の変で姉小路公知が暗殺された後は、文久4年(1864年)嵯峨御所の師範役となるも、禁門の変、尊王攘夷運動他の騒動に関連するなどし、三条実美の朝廷の親兵設置に参加したため、幕府に補えられ入牢。

慶応元年6月6日(1865年7月28日) 牢中にて死去し、浅草法恩寺と群馬県山田郡鹽原村奥澤家墓地に葬られる[3] 戒名は有善院澤光照居士。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 拳法図解』によると奥澤七事斎の師である斎藤武八郎を14世としている。
  2. ^ 戸田流 奥澤三造と記載され、気楽流とは記載がない

出典 編集

  1. ^ a b 渡辺一郎先生を偲ぶ会 編『渡辺一郎先生自筆 近世武術史研究資料集』前田印刷、2012年
  2. ^ 『重教七十年の旅. 前編』電気之友社、1936年、1,2,3頁。 
  3. ^ 『山田郡史』山田郡教育委員会、1936年、1138頁。 

参考文献 編集

  • 山田郡教育會編『山田郡史』山田郡教育會、1939年
  • 久富鉄太郎 著 『拳法図解』須原鉄二、1888年
  • 中嶋哲也「天神真楊流・磯道場 『他流試合性名控』を手がかりに」講道館柔道科学研究会紀要 2017  47,48頁では戸田流奥沢三造門人が天神真楊流門人と試合と記載
  • 渡辺一郎先生を偲ぶ会 編『渡辺一郎先生自筆 近世武術史研究資料集』前田印刷、2012年
  • 熊本県立図書館所蔵、富永家文書『戸田流柔術』 奥澤門人の大川完司が門人に授けた戸田流(気楽流)の伝書