堀 直弘(ほり なおひろ)は、越後村松藩の第12代(最後)の藩主(知藩事)。直寄系支流堀家12代。官位は従五位下。

 
堀 直弘
堀直弘
時代 江戸時代末期-明治時代
生誕 万延2年2月14日1861年3月24日
死没 大正8年(1919年12月6日
改名 堀直弘→奥田直弘
官位 従五位下
幕府 江戸幕府
主君 徳川慶喜明治天皇
越後村松藩主→村松藩知事
氏族 堀氏
父母 父:堀直央、養父:堀直賀
兄弟 直休直弘福原資功吉田良義室、清子
澤宣嘉の娘(先妻)
武田利安の娘(後妻)
奥田直暢奥田直元、三子、貞麿、秀麿
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経歴

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万延2年(1861年)の誕生直後に父が死去した。慶応4年(1868年)の戊辰戦争に際し、新政府を支持する正義党の近藤安五郎一派と対立した先代藩主・直賀奥羽越列藩同盟に参加して米沢藩に逃れたため、正義党から新藩主として擁立された。村松藩は新政府軍に降伏し、所領安堵された。

明治元年(1868年)12月7日、直賀の隠居処分により、家督を相続した。明治2年(1869年)6月20日、版籍奉還にともない、村松藩知事に任じられた。同年9月5日、従五位になった。明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県にともない知藩事を免職となった。明治10年(1877年)2月、同族の堀直明堀之美とともに奥田姓へ改めることを願って受理された。その後、長男の奥田直暢に家督を譲って隠居し、直暢は明治17年(1884年)に子爵を叙爵された(直暢はそののち弟の奥田直元に家督を譲って分家している)。

大正8年(1919年)死去。

系譜

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父母

正室、継室

子女


当主
先代
堀直賀
村松藩堀/奥田家
12代 堀直弘/奥田直弘
1868年 - ?
次代
奥田直暢