奥羽越列藩同盟

会津若松の祭典にて列藩同盟旗を掲げる旗手
奥羽越列藩同盟旗、黒地のものと白地のものがある

奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)は、戊辰戦争中に陸奥国奥州)、出羽国羽州)、越後国越州)の諸藩が、輪王寺宮北白川宮能久親王を盟主とし、新政府の圧力に対抗するために結成された同盟である。

元々は奥羽諸藩が会津藩庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を目的として結んだ同盟(奥羽列藩同盟)であったため、両藩は盟約書には署名していない(ただし両藩は会庄同盟を結成)。赦免嘆願が拒絶された後は、新たな政権(北部政権)の確立を目的とした軍事同盟に変化した。同盟のイデオローグ・理論的指導者として、仙台藩大槻磐渓の存在が挙げられる。

なお、加盟各藩はいずれも当初新政府の奥羽鎮撫総督に従っていた。 

目次

救会・救庄のための同盟編集

会津、庄内藩の立場編集

会津藩京都守護職庄内藩は江戸市中取締を命ぜられ旧幕府の要職にあり、薩長と対立したために「朝敵」として新政府からの攻撃対象とされ、特に会津藩は幕府派の首魁と目されていた。会庄両藩の外交の動きは、2011年2月東京大学史料編纂所箱石大准教授らにより、両藩が当時のプロイセン代理公使マックス・フォン・ブラントを通じて、領有する北海道根室留萌の譲渡と引き換えにプロイセンとの提携を模索していたことを示す、ブラントから本国への書簡がドイツ国立軍事文書館で発見された[1]ことにより、明らかになってきた。この文書において、プロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルクは中立の立場から会庄両藩の申し出を断っている。しかしプロイセン海軍大臣は、日本が混迷している隙をつき、他国同様、領土確保に向かうべきであると進言している。

会津への出兵編集

会津藩内では武装恭順派と抗戦派が対立したが、藩主松平容保は家督を養子の喜徳へ譲り謹慎を行い恭順の意志を示した。しかし、この武装恭順は認められず、慶応4年(1868年)1月17日、新政府は仙台藩米沢藩をはじめとする東北の雄藩会津藩追討を命じた。3月2日、奥羽鎮撫総督九条道孝が京都をたって3月23日仙台に入った。

鎮撫使は仙台藩に対し強硬に会津出兵を迫ったため3月27日に会津藩境に出兵したが、この間も仙台藩・米沢藩等は会津藩と接触を保って謝罪嘆願の内容について検討を重ねていた。4月29日、七が宿・関宿にて仙台・米沢・会津藩による談判がもたれ、会津藩が謀主の首級を出し降伏することに一旦同意した。[2]しかし、数日後にはそれを翻した内容の嘆願書を持参する。これを見て仙台藩は説得を諦めることとなる。

庄内・清川口の戦い編集

一方、庄内藩では、江戸市中警備を行っていた新徴組を引き上げるのに当たって、その褒賞として最上川西岸の天領を旧幕府より与えられる。しかし、領民はこれを不服として仙台の奥羽鎮撫府に申し出たため、4月10日この申し出を口実に庄内征伐を決め、久保田藩弘前藩の両藩に討ち入りを命じた。14日には副総督澤為量ら討庄軍が仙台を出発して庄内藩の討伐に向かい、奥羽諸藩の兵とともに新庄城を拠点に庄内藩へ侵攻した。24日に清川口で最初の戦闘が発生したが、庄内軍が薩長軍を撃退する。この段階では各藩とも戦闘に消極的であった。

会庄同盟編集

あくまで武力討伐にこだわる奥羽鎮撫府に対して、会津藩は南摩綱紀を庄内藩に派遣、4月10日に庄内藩重役の松平権十郎らと会合を持ち、会庄同盟を結成する。なお、松平権十郎は米沢藩が同盟に加われば仙台藩も同盟に加わると意見を述べており、この時期に「奥羽列藩同盟」構想の萌芽が現れていたと言える。[3]そのころ庄内藩は、当時日本一の大地主と言われ藩を財政的に支えた商人本間家の莫大な献金を元に商人エドワード・スネルからスナイドル銃など最新式兵器を購入するなど軍備の強化を進めており、それが会津藩を勇気づけることとなった。結局、前述の仙台藩の会津出兵による説得は功をなさないものであったと言えよう。

天童の戦い編集

4月24日清川口の戦いで奥羽鎮撫府軍を撃退した庄内軍は勝勢に乗じて六十里越を通り最上川左岸(寒河江市河北町)に布陣する。閏4月4日最上川を越えて天童を襲撃、市街地の半分を焼く。朝敵の誹りを恐れた庄内藩主酒井忠篤は撤退の命を下し閏4月12日に撤退するが、官位は剥奪され庄内藩は正式に討伐の対象になってしまう。

白石列藩会議編集

こうした中、閏4月4日米沢藩・仙台藩4家老の名前で、奥羽諸藩に対して列藩会議召集の回状が回された。閏4月11日、奥羽14藩は仙台藩領の白石城において列藩会議を開き、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書「会津藩寛典処分嘆願書」などを奥羽鎮撫総督に提出した。しかしこれが却下されたため、閏4月19日諸藩は会津・庄内の諸攻口における解兵を宣言した。

世良修蔵の暗殺編集

奥羽鎮撫総督府下参謀世良修蔵4月12日に仙台を出発して白河方面に赴き、各地で会津藩への進攻を督促していたが、閏4月19日に福島に入り旅宿金沢屋に投宿していた。ここで、同じく下参謀であった薩摩藩大山格之助に密書を書いた。

内容は、鎮撫使の兵力が不足しており奥羽鎮撫の実効が上がらないため、奥羽の実情を総督府や京都に報告して増援を願うものであったが、この密書が仙台藩士瀬上主膳や姉歯武之進らの手に渡った。姉歯らは以前から世良修蔵の動向を警戒していたが、密書の中にある「奥羽皆敵」の文面を見て激昂した彼らは、翌日金沢屋において世良修蔵を襲撃した。世良はピストルで応戦するが不発、あえなく捕らえられ、阿武隈川の河原にて斬首された。

「奥羽列藩同盟」の誕生編集

会津赦免の嘆願の拒絶と世良の暗殺によって、奥羽諸藩は朝廷へ直接建白を行う方針に変更することとなった。そのためには奥羽諸藩の結束を強める必要があることから、閏4月23日新たに11藩を加えて白石盟約書が調印された。その後、仙台において白石盟約書における大国強権の項の修正や同盟諸藩の相互協力関係を規定して、5月3日に25藩による盟約書[4]が調印され、同時に会津・庄内両藩への寛典を要望した太政官建白書も作成された。奥羽列藩同盟成立の月日については諸説あるが、仙台にて白河盟約書を加筆修正し、太政官建白書の合意がなった5月3日とするのが主流のようである。

北越諸藩の加盟~奥羽越列藩同盟の成立編集

翌4日には、新政府軍との会談に決裂した越後長岡藩が加盟、6日には新発田藩等の北越同盟加盟5藩が加入し、計31藩による奥羽越列藩同盟が成立した。

列藩同盟結成後の撫順総督府編集

副総督の澤為量が率いる新政府軍は庄内討伐のため秋田に滞在しており、世良が暗殺された後は、九条は仙台藩において軟禁状態になっていた。5月1日松島に新政府軍の佐賀藩小倉藩の兵が上陸し、九条の護衛のため仙台城下に入った。九条は、奥羽諸藩の実情を報告するために副総督の沢と合流して上京する旨を仙台藩側に伝えた。翌15日列藩会議が開かれてこの問題が討議され、九条の解放に反対する意見も出たが、結局九条の転陣が内定し、18日仙台を発って盛岡に向かった。

「北部政権」構想編集

奥羽越公議府編集

奥羽越列藩同盟の政策機関として奥羽越公議府(公議所とも)がつくられ、諸藩の代表からなる参謀達が白石城で評議を行った。

列藩同盟の戦略編集

奥羽越公議府において評議された戦略は、「白河処置」及び「庄内処置」、「北越処置」、「総括」であり、全23項目にのぼる。主に次のような内容で構成される。

  • 白河以北に薩長軍を入れない、主に会津が担当し仙台・二本松も出動する
  • 庄内方面の薩長軍は米沢が排除する
  • 北越方面は長岡・米沢・庄内が当たる
  • 新潟港は列藩同盟の共同管理とする
  • 薩長軍の排除後、南下し関東方面に侵攻し、江戸城を押さえる
  • 世論を喚起して、諸外国を味方につける

このほか、プロシア領事、アメリカ公使に使者を派遣し貿易を行うことを要請している。

二人のミカド編集

上野戦争から逃れ、6月6日に会津に入っていた輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)を同盟の盟主に戴こうとする構想が浮上した。当初は軍事的要素も含む同盟の総裁への就任を要請されたが、結局6月16日に盟主のみの就任に決着、7月12日には白石城に入り列藩会議に出席した。

また、輪王寺宮の「東武皇帝」への推戴も構想にあったとされるが、よくわかっていない。

確かなのは輪王寺宮が会津入りする以前の4月の段階で用語などが天皇扱いされていたことと、「東武皇帝の閣僚名簿」としていくつかの文書が知られているだけである。当時の日本をアメリカ公使は本国に対して、「今、日本には二人の帝(ミカド)がいる。現在、北方政権のほうが優勢である。」と伝えており、新聞にも同様の記事が掲載されている[5]

なお、輪王寺宮は列藩会議への出席に先立ち、7月10日に全国の10万石以上の大名に対して、「動座布告文」と「輪王寺宮令旨」を発令している。この中で輪王寺宮は諸大名に対して、『幼君(明治天皇)を操る君側の奸、薩摩・長州を取り除く』ことを強く主張している。幼君を字義通りに解釈すれば明治天皇の帝位を認めていることになるが、必ずしも輪王寺宮の即位を否定する根拠とならない[6]

したがって、輪王寺宮が奥羽越列藩同盟の事実上の元首であったことは間違いないが、東武皇帝として即位したかどうか、統一した見解は得られていない。

組織構造編集

奥羽越列藩同盟は、まず列藩会議があり、その下に白石に奥羽越公議府が置かれた。その後輪王寺宮が盟主に就任し、旧幕府の閣老である板倉勝静小笠原長行にも協力を仰ぎ、次のような組織構造が成立した。

  • 盟主 : 輪王寺宮
  • 総督 : 仙台藩主伊達慶邦、米沢藩主上杉斉憲
  • 参謀 : 小笠原長行、板倉勝静
  • 政策機関 : 奥羽越公議府(白石)
  • 大本営 : 軍事局(福島)
  • 最高機関 : 奥羽越列藩会議

この結果、形式的には京都新政府に対抗する権力構造が整えられたとする評価もあるが、これらが実際に機能する前に同盟が崩壊してしまったとする説もあり、奥羽越政権としての評価は定まっていない。

戦闘編集

戦闘は大まかに庄内・秋田戦線、北越戦線、白河戦線、平潟戦線に分けることができる。このうち、秋田戦線については久保田藩の新政府への恭順により加わったものである。なお、同様に新政府側となった弘前藩との間では野辺地で盛岡・八戸両藩と戦闘となっている(野辺地戦争)。

庄内・秋田戦線編集

江戸警護役として「薩摩藩邸焼き討ち」を断行した庄内藩(酒井氏)と、列藩同盟に軟禁されていた九条総督を迎え新政府側に転じた久保田藩(佐竹氏)を中心とする戦い。

庄内戦線編集

薩摩藩、長州藩を中心とする新政府は、薩摩藩士、大山綱良を下参謀に、公家、九条道孝を総督にそれぞれ任命して奥羽鎮撫総督府をつくると、薩摩藩兵を海路、仙台藩に送り込んだ。仙台藩に会津追討を命じた総督府は、庄内藩を討つため仙台から出陣した。 4月24日、いわれなき「朝敵」の汚名を着せられた庄内藩は、清川口から侵攻してきた大山綱良率いる新政府軍を迎え撃った。新政府軍の侵攻を予想して、豪商、本間家からの献金で最新鋭の小銃を購入し洋化を進めていた庄内藩は、戦術指揮も優秀であったため、新政府軍を圧倒した。薩長の新政府軍が旧幕府軍を圧倒したといわれる戊辰戦争の一連の戦闘の中で、旧幕府軍が新政府軍を圧倒した数少ない例と言われる。

秋田戦線編集

5月18日に仙台を出た九条総督一行は「伊達の敵といえば」と6月3日に盛岡に入ったが、盛岡藩はいまだ藩論統一をみない、新政府側家老暗殺の動きすらある状態であったことからこれを諦め、盛岡藩は金銭を支払う形で領内退去を願い、総督は6月24日秋田へ出発した。7月1日、九条一行は秋田にて沢副総督と再会し、東北の新政府軍が秋田に集結することになった。

同藩出身である平田篤胤の影響で尊王論の強かった久保田藩においては、同盟か朝廷かで藩論が二分されたが、平田学の影響を受けた若い武士により、仙台藩からの使者を斬殺するに至って(このとき盛岡藩士も巻き込まれているが泣き寝入りとなった)、政府軍への参加と庄内藩への進攻を決定した。仙台藩はこれに怒り久保田領内に侵攻し、庄内藩と共同作戦をとりつつ横手城を陥落させ、久保田城へ迫った。

庄内藩は新政府軍側についた新庄藩本荘藩、久保田藩へと侵攻する。藩論統一が成されていなかった盛岡藩は仙台藩に恫喝される形で軍を発し、久保田藩領内北部から進入、かねてより仙台藩と親しかった家老楢山佐渡の指揮のもと、町村を焼き払いながら侵攻し、大館城を陥落させ、さらに久保田城の方向に攻め入った。

秋田南部での戦いでは、薩長兵や新庄兵が守る新庄城を数で劣る庄内藩が激戦の末に撃破し、秋田に入った後も、列藩同盟側は極めて優勢に戦いを進めていた。特に、庄内藩の鬼玄蕃と呼ばれた家老酒井吉之丞は二番大隊を率い奮戦した。彼は、最初から最後まで負け戦らしい戦闘を経験せず、同盟側の多くが降伏し、庄内領内にも敵が出没するという情勢を受けて、現在の秋田空港の近くから庄内藩領まで無事撤退を完了させて、その手腕を評価された。

秋田北部の戦いでは盛岡藩は大館城を攻略した後、きみまち坂付近まで接近するものの、新政府軍側の最新兵器を持った兵が応援に駆けつけると形勢は逆転し、多くの戦闘を繰り返しながら元の藩境まで押されてしまう。盛岡藩領内へ戻った楢山佐渡以下の秋田侵攻軍は、留守中に藩を掌握した朝廷側勢力によって捕縛され、盛岡藩は朝廷側へと態度を変更しはじめた。

結果として、久保田領内はほぼ全土が戦火にさらされることになった。

北越戦線編集

長岡・米沢藩を中心とした列藩同盟軍と新政府軍との越後長岡藩周辺及び新潟攻防戦を中心とした一連の戦闘。

北越においては、5月2日6月21日)の小千谷談判の決裂後、長岡藩は奥羽越列藩同盟に正式に参加し、新発田藩など他の越後5藩もこれに続いて同盟に加わった。これにより長岡藩と新政府軍の間に戦端が開かれた。

家老河井継之助率いる長岡藩兵は強力な火力戦により善戦するが、5月19日には長岡城が陥落した。しかし、その後も長岡藩は奮闘し、7月末には長岡城を一時的に奪還したが、この際の負傷が原因で河井継之助は死亡した。結局長岡城は新政府軍に奪われ、会津へ敗走した。

新潟は列藩同盟側の武器調達拠点であるとともに、阿賀野川を制することにより庄内・会津方面の防衛線としても重要な拠点であった。

新潟は米沢藩を中心に守りを固めていたが、7月25日、新政府軍に寝返った新発田藩の手引きによって新政府軍が上陸。同月29日には新潟は制圧され、米沢藩は敗走した。

白河戦線、平潟戦線編集

会津藩及び奥羽越列藩同盟軍と北上してきた明治新政府軍との白河口、二本松、日光口、母成峠から若松城下の戦いに至る一連の戦闘。同様に、太平洋岸の藩である磐城平藩中村藩仙台藩による同盟軍と、明治新政府軍との一連の戦闘。

同盟結成後直ちに白河城を制圧した同盟軍であったが、5月1日、薩摩藩士、伊地知正治率いる新政府軍は同盟軍から白河城を奪還する。以後、白河城をめぐり3か月余りも攻防戦(白河口の戦い)が行われた。5月1日仙台藩・会津藩等の連合軍は2500以上の大兵を擁しながら白河口の戦いで新政府軍700に大敗し白河城も陥落する。6月12日には仙台藩・会津藩・二本松藩連合軍が、白河城を攻撃したものの、失敗に終わった。6月26日には列藩同盟軍が白河から撤退し須賀川へ逃れることとなる。

一方、太平洋側では、6月16日、土佐藩士・板垣退助率いる新政府軍が、海路で常陸国(茨城県)平潟に上陸した。6月24日、仙台藩兵を主力とする同盟軍は、新政府軍と棚倉で激突した。6月24日には棚倉城が陥落、さらに7月13日には、新政府軍と列藩同盟軍が磐城平で激突した。列藩同盟の準盟主格の米沢藩はこの戦闘には不参加で、列藩同盟軍は磐城平城の戦いに敗れた。中村藩兵と仙台藩兵が退却すると、新政府軍は中村藩兵と仙台藩兵を追撃。7月26日、同盟軍と新政府軍は広野で再び戦い、新政府軍は同盟軍を破った。その後8月6日には中村藩の降伏により、太平洋岸は完全に新政府軍が制圧した。

7月26日には勤皇派が実権を得た三春藩が新政府軍に恭順し、二本松方面へ攻撃準備に加わり、7月29日に二本松城が陥落した。二本松領を占領した新政府軍では、次の攻撃目標を会津にするか仙台・米沢にするかで意見が分かれたが、会津を攻撃することとなった。会津戦争の始まりである。

会津藩は江戸占領を意図し、南方の日光口を中心に会津から遠く離れた各所に部隊を送っていたが、二本松まで北上していた新政府軍は若松の東の母成峠から攻め、敏速に前進し8月23日には若松城下に突入した。遠方に兵力があった会津藩は新政府軍の前進を阻止できず、各地の戦線は崩壊し、各地の部隊は新政府の前進を阻止するでもなく若松への帰還を志向し、城下では予備部隊である白虎隊まで投入するがあえなく敗れた。

瓦解編集

7月26日まず三春藩が降伏、28日には松前藩で尊王派の正議隊による政変(正議隊事件)が起きて降伏した。続いて、29日に二本松藩の本拠・二本松城が落城した。次いで8月6日相馬中村藩が降伏。一方、下手渡藩が列藩同盟参加の時点で既に藩主が京都に入って新政府軍に加わっていた事実が発覚、激怒した仙台藩は8月14日に同藩に攻め入った。

日本海側の戦線では、新政府軍は新潟に上陸した後、8月いっぱいは下越を戦場に米沢藩と戦っていたが、遂に羽越の国境に迫られた米沢藩は9月4日に降伏、そして12日には仙台藩と、盟主格の二藩が相次いで降伏した。その後、15日福島藩上山藩、17日山形藩、18日天童藩、19日会津藩、20日盛岡藩、23日庄内藩と主だった藩が続々と降伏し、奥羽越列藩同盟は完全に崩壊した。

野辺地戦争編集

盛岡藩降伏後の9月23日未明、突如として弘前・黒石両藩が盛岡・八戸両藩が守備する野辺地へ侵攻したもの。一旦は盛岡・八戸藩が退却するも、反撃に転じ弘前・黒石軍を撃破する。

双方の戦死者は盛岡・八戸両藩が8名なのに対し、弘前・黒石両藩が29名(或いは43名とされる)であり津軽側の大敗であった。

この戦闘の原因は津軽側の実績作りといわれるが不明である。同様の小競り合いは鹿角郡濁川でも起こっている(濁川焼討ち事件)が、いずれも戦後処理においては私闘とされた。

奥羽越列藩同盟参加藩編集

注)*は新政府軍に寝返った藩(進退窮まっての降伏は除く、なお下手渡藩は当初から新政府軍に通じた上での加入であった)

脚注編集

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  1. ^ 維新期の会津・庄内藩、外交に活路 ドイツの文書館で確認”. 朝日新聞. www.asahi.com (2011年2月7日). 2011年2月9日閲覧。
  2. ^ 『仙台藩記』土佐云 謝罪嘆願被致ニテ開城某主の首級を差出候哉 平馬答 容保城外に謹慎ハ勿論ニ候得共首級ハ差出兼候伏見ニテ大概戦死生残ル者僅一両輩是等ハ皆国家盡尽忠ノ者ニテ斬首ニ及候ハバ国中同様事却て被可申全体徳川慶喜一身ニ引受壱人ノ罪にて他将卒の誤ニハ無之趣意を以謝罪嘆願御採用の上ハ会藩等ノ如キハ己に罪状消滅今更征討ヲ蒙ル謂レ無之依テハ首級迄ハ差出兼申候 土佐云 其趣ニテハ執達致兼候尤御受取ニハ相成魔敷其節ハ何様所置致候哉 平馬云 一国死ヲ以守申候 土佐云 一国拳テ死ノ覚悟ならは僅一両輩ノ死ヲ以一藩助命相成候ハバ一ツ二ツノ首級ハ安キ事に可有之ト申候其折傍座致居候 
  3. ^ 『南摩綱記筆記 復古記十二巻』権十郎曰、会、庄一致、而後米沢を説諭セン、米同盟セハ、仙ハ直ニ同盟セン、仙、米会、庄同盟セハ、奥羽諸藩一言ニシテ同盟スヘシ、然後、速ニ兵ヲ江戸ニ出シ、江戸城ヲ以テ軍議本営トシ、諸藩ノ兵を合シテ凶徒ヲ掃ヒ、君側ヲ清ムヘシ、如此ナレハ、則唾手シテ天下ノ事成ル可シ、是寡君江戸ニ在ル時ヨリノ持論ナル故ニ、密使ヲ以テ貴藩ヘ謀ラント、已ニ菅、本多等ニ命シタレトモ、病ニ臥シテ発スルコト能ワス、遅延今日ニ及ヒタリ、今卿等来テ此約成ル、何ノ幸カ之ニ若ンヤト、庄両候、八之丞、平介ヲ城内ニ召テ、懇篤ノ面命アリ、又賜物ヲ辱フス、平介庄藩戸田文之助ト共ニ米藩ニ赴キ、同盟ヲ謀ル、八之丞ハ菅、本多ト共ニ四月廿六日会津ニ帰結シ、一両人を撰テ彼此互ニ交萬シ、密議ヲ預リ聞クコトヲ約ス、庄ヨリハ物頭戸田文之助、軍事掛吉野遊平穉松ニ来萬ス、我藩ヨリハ佐久間平介、鶴岡ニ往テ寓居ス、後平介故アリテ帰国、上島良蔵之に代ル、是同盟ノ濫觴ナリ
  4. ^ 『東北征討始末五・奥羽征討二 国立公文書館デジタルアーカイブ』今度奥羽列藩会議於仙台表告 鎮撫総督府欲以修盟約執公平正大之道同心協力上尊王室下撫恤人民維持皇国而安宸襟仍条例如左 一 以伸大義于天下為目的不可拘泥小節細行事 一 如同舟渉海可以信居以義動事 一 若有不義危急之事比隣各藩速援救可報告総督府事 一 勿負強凌弱勿営私計利勿漏洩機事勿離間同盟 一 築造城塁運搬食糧不得止勿漫令百姓労役不勝愁苦 一 大事件列集儀、可帰公平之旨、細微則可随其宣事 一 通謀他国、或出兵隣境、可報同盟事 一 勿殺戮無辜、勿掠奪金穀、凡事渉不義者可加厳罰事 右条々於有違背者、則列藩集儀、可加厳譴者也、慶応四年閏四月
  5. ^ ニューヨーク・タイムズ 1868年10月18日号に「JAPAN: Northern Choice of a New Mikado(北部日本は新たなミカドを擁立した)」とある。
  6. ^ 自ら天皇(新皇)を称した上で京都の天皇の帝位(本皇)を認めた例として、平将門が挙げられる。

参考文献編集

  • 原口清『戊辰戦争』(塙書房、(1963年) ASIN: B000JAIUTO
  • 工藤威『奥羽列藩同盟の基礎的研究 (近代史研究叢書 (5)) 』(岩田書院、(2002年)ISBN-10: 4872942612
  • 星亮一『奥羽越列藩同盟 東日本政府樹立の夢』(中公新書、1995年) ISBN 4-12-101235-6
  • 中山吉弘 編著『明治維新と名参謀前山清一郎』(東京図書出版会、2002年) ISBN 4-434-01349-1