安倍真勝
安倍 真勝(あべ の まかつ)は、平安時代初期の貴族。参議・阿倍毛人の孫で、大宰大監・安倍三綱の子。官位は従四位上・伊予守。
時代 | 平安時代初期 |
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生誕 | 天平勝宝6年(754年) |
死没 | 天長3年9月6日(826年10月10日) |
官位 | 従四位上・伊予守 |
主君 | 桓武天皇→平城天皇→嵯峨天皇 |
氏族 | 安倍氏 |
父母 | 父:安倍三綱[1] |
経歴編集
桓武朝末の延暦24年(805年)に従五位下に叙せられ、延暦年間末から弘仁5年(814年)まで陰陽頭を務める。この間、備中守・治部少輔・大学頭等を兼ねる一方、大同3年(808年)従五位上、弘仁3年(812年)正五位下に昇叙している。また、弘仁3年(812年)6月には参議・紀広浜らと共に『日本書紀』の講読に参画している[2]。
弘仁5年(814年)8月刑部大輔に転じると、同年11月造西寺長官、翌弘仁6年(815年)正月には造東寺長官と短期間に官職を転々とした。なお、弘仁6年(815年)に成立した『新撰姓氏録』の編纂にも参画している。
弘仁11年(820年)従四位下・神祇伯に叙任されるが、その後は甲斐守・伊予守と地方官を歴任し、位階は従四位上に至った。天長3年(826年)9月6日卒去。享年73。最終官位は伊予守従四位上。
人物編集
性格は飾り気がなく律儀で、媚びへつらうことを好まなかった。老荘を学び、文章をよく口にして読みも流暢であったが、その内容には精通していなかった。歴任した官職では寛静をもって対処したと賞賛された[1]。
官歴編集
『日本後紀』による。