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安藤 良整(あんどう りょうせい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将後北条氏の家臣。「良整」は入道名であり諱は不明。

 
安藤良整
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 不明
別名 通称:豊前入道
官位 豊前守
主君 北条氏康氏政氏直
氏族 安藤氏
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略歴編集

北条氏康氏政氏直の3代に仕え、奉行人として出納関係など行政面で活躍した。『日本城郭大系』によると軍事面では野庭関城の城将を務めた。

文書上、最初に確認できるのは永禄6年(1563年)に発給された相模国誓願寺[1]を建立した事を伝える伝馬手形の付箋。これに「御奉行安藤豊前守御役所より」とあるため、少なくとも、この頃には奉行衆の一員であり、寺院建立を要請できる身分である(=軽役・軽禄ではない)事がわかっている。以後も奉行衆として活躍し、永禄12年(1569年)から天正16年(1588年)までの間、良整が奉者となった虎朱印状(北条氏の公式文書)が多数残っている。

天正10年(1582年)、北条氏領国内では、伊豆国三島大社で作成された三島暦と、武蔵国氷川神社で作成された大宮暦という、置閏法の解釈の異なる二種類の暦(民間暦・仮名暦)が使用され、混乱を招いていた。北条氏政は算術に優れた安藤良整に再計算を命じた。この際に安藤は氏政に対し、算木の由来を説明し、三島暦の由来を紹介した。再計算の結果、朝廷陰陽寮が監修していた京暦や大宮暦は間違いで、三島暦が正しいと結論付けた[2]。北条氏領内では三島暦が採用されることとなり、大宮暦の頒暦が禁止されたため、大宮暦は衰微したと言われている(「改暦 - 天正10年の例」参照)。なお同時期に中央政界ではこの年の暦のずれに対し、三島暦に合わせたい織田信長と、京暦側である朝廷・貴族・陰陽寮との間で何度かの交渉が行われている[3]

安藤はまた、『北条氏所領役帳』の編集に携わった。北条氏の物流・納税などに利用された公用枡「榛原枡」は別名「安藤枡」とも呼ばれ、良整が考案したものだといわれている。

没年は不詳であるが、文書上、最後にその名が見えるのは天文17年(1589年)9月に多摩川で洪水が発生し、これから起こった領地争いの検使として赴いた記述である。

脚注編集

  1. ^ 良整が氏康の許しを得て建立した寺院。
  2. ^ 北条五代記』巻六・『新編武蔵風土記稿
  3. ^ 織田信長の死により頓挫。

出典編集