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多摩川

日本の山梨県・東京都・神奈川県を流れる一級河川

多摩川(たまがわ)は、山梨県東京都神奈川県を流れる多摩川水系の本流東京湾に注ぐ一級河川。下流は東京都神奈川県の都県境となっている。全長138km、流域面積1,240km2堤防はあるものの、首都圏の一級河川でありながら護岸化されていない部分が多く、川辺の野草や野鳥が数多く見られる自然豊かな河川である。

多摩川
多摩川 2002年3月撮影
多摩川(小田急鉄橋(和泉多摩川駅~登戸駅)付近)
水系 一級水系 多摩川
種別 一級河川
延長 138 km
平均流量 36.6 m³/s
(石原観測所(2000年))
流域面積 1,240 km²
水源 笠取山
山梨県甲州市塩山一之瀬高橋)
水源の標高 1,953 m
河口・合流先 東京湾東京都大田区羽田空港
神奈川県川崎市川崎区浮島町)
流域 日本の旗 日本
山梨県東京都神奈川県
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多摩川のランドサット衛星写真。赤が流路。左の空白部分は奥多摩湖。橙色は主な支流。左から秋川(上が北秋川、下が南秋川)、浅川(同じく北浅川、南浅川)、野川

目次

名称の由来編集

 
葛飾北斎『富嶽三十六景』より「武州玉川」

名称の由来は諸説あり、よくわかっていない。『万葉集』所載の東歌に「多麻河」が登場する。835年に朝廷が発した官符では、丸子の渡し近傍をもって「武蔵国石瀬河」と呼称され、平安時代の『更級日記』にも同名で現われている。上流の「丹波川(たばがわ)」との近似はよく言われることである。江戸時代には同音の字を使って玉川(たまがわ)の名が使われることが多かった。そのため、現代(2018年時点)でも玉川の名は、玉川上水二子玉川駅といった施設名や地名などに多く残る。

地理編集

 
「丹波川」とも呼ばれる上流域。丹波山村
 
小河内ダム
 
境橋から望む多摩川
 
神代橋から望む多摩川
 
羽村取水堰直下の玉川上水最上流部(並木の向こう側に多摩川が並行して流れている)
 
河口には東京国際空港がある。特にD滑走路は多摩川の流路の延長上にあるため流れを妨げない特殊な構造となっている。

源流と小河内ダム編集

山梨県埼玉県の県境にある笠取山(かさとりやま)(標高1953m)山頂の南斜面下「水干」(みずひ)を源とする。上流部では柳沢峠から流れ込んでくる柳沢川と合流するまで一之瀬川(いちのせがわ)と、そこから下流は丹波川(たばがわ)と呼ばれ、奥多摩湖に注ぐ。

上流編集

多摩川と呼ばれているのは奥多摩湖の湖水の出口である小河内ダムより下流からである。その後、東京都青梅までは山中を東へ流れる。この上流部は秩父多摩甲斐国立公園に含まれる。この区間に沿って東日本旅客鉄道(JR東日本)青梅線が走っている

青梅線御嶽駅周辺は1985年昭和60年)御岳渓流として名水百選の一つに選定されていて[1]両岸には、約4kmの遊歩道が整備されている。

東京都奥多摩町白丸には白丸ダムがある。

中流編集

青梅からは概ね南東に多摩丘陵武蔵野台地の間を、瀬と淵を繰り返しながら流れ下っていく。左岸の武蔵野台地河岸段丘は、かつての多摩川が造ったものである。段丘崖は下から立川崖線(府中崖線)国分寺崖線と呼ばれ、立川崖線の下を多摩川低地、両崖線の間を立川面、最上段を武蔵野面と呼ぶ。東京都羽村市から玉川上水へと取水される羽村取水堰付近や国立市青柳付近での多摩川は武蔵野台地の低位面に直接ぶつかって流れている。また、多摩市の大栗川合流点から武蔵野貨物線鉄橋・南武線多摩川鉄橋の上流付近までは多摩丘陵に直接ぶつかっている。

東京都調布市、神奈川県川崎市多摩区からは東京都と神奈川県の都県境を流れ、両岸とも低地になる。川崎市多摩区から東京都日野市にかけては、多摩川が運んだ礫層が地表に近いため水はけが良く、栽培に適した特産品になっている。特に川崎市多摩区と東京都稲城市が生産の中心となっていて多摩川梨として知られているが、市場にはあまり出回らず、多くは直売されている。

下流編集

東京都大田区と川崎市川崎区との境で東京湾に注ぐ。河口の左岸に東京国際空港(羽田空港)がある。 下流部は六郷川(ろくごうがわ)とも呼ばれる。 右岸の河口(水準拠標)は川崎区殿町の水位観測所[2]にあり、「海から20K」といった標識の原点となっている。地形としてはさらに 3kmほど下った浮島町公園付近で京浜港に注いでいる。

分水界編集

多摩川水系の北側の分水界秩父から奥多摩の山中では埼玉県との県境を、武蔵野台地では武蔵野面の南縁に近いところを走っていて、玉川上水はほぼそれに沿う形で開削されている。源流から、下流の内上流寄り(三鷹市付近)までは荒川と分水界を接し、下流の内河口寄り(世田谷区付近より下流)では目黒川呑川と分水界を接する。すなわち武蔵野台地の高位面である武蔵野面に降った雨は地表を流れる分については多摩川にはほとんど注ぐことがない。多摩川の名残川であろうと推定されている流路を伝って荒川水系に注いでいる。

一方、南側の分水界は関東山地から多摩丘陵の中を通っている。中流以降の多摩川の支流は、圧倒的に右岸に集中している。多摩川水系最大の流域面積を持つ秋川も、最も幹線流路延長の大きい浅川も右岸にある。これは関東平野が周辺部が隆起し中央部が沈み込んでいることの影響である。南側の分水界は上流部では富士川相模川と中流以降では境川鶴見川の分水界と接している。

崖線と湧水編集

崖線(多摩川中流域では「ハケ」あるいは「ママ」と呼んでいる)下では至るところから湧水が湧き出している。それらの湧水を集めているのが中流以降の左岸では最も大きい支流である野川である。JR中央線国分寺駅付近にあるいくつかの泉を源流としてほぼ国分寺崖線に沿って湧水を集めながら流れて行き、世田谷区玉川1丁目先で本流に合流している。立川崖線下でも同様に湧水を集めた流れがあるが、ここでの主役は府中用水をはじめとするいくつかの用水路である。

流域自治体編集

山梨県
甲州市丹波山村小菅村
東京都
奥多摩町○、青梅市○、瑞穂町檜原村日の出町あきる野市○、羽村市○、福生市○、昭島市○、武蔵村山市小平市立川市○、国立市○、国分寺市小金井市八王子市○、日野市○、多摩市○、稲城市○、府中市○、武蔵野市三鷹市調布市○、狛江市○、世田谷区○、大田区
神奈川県
川崎市

※ ここでの流域の定義は広く、多摩川に湧水、或いは雨水が流れ込む地域という意味であり、ここに挙げた自治体の存する区域に多摩川本流が流れているとは限らない。(多摩川本流が流れている自治体には○印を添付)

支流・分流・用水路・湖沼編集

※ 無印は合流する支流を、○印は湖沼を、→印は分流または用水路を表す。

(水干)

  • ウタノ沢
  • シラベ沢
  • 黒エンジュ沢
  • ムササビ沢
  • 与平沢
  • ヤブ沢
  • 中島川
  • 中川
  • 柳沢川

(ここまで一之瀬川)

  • 小室川
  • マリコ川
  • 後山川
  • 小袖川

(ここまで丹波川)

(ここまで奥多摩湖)

  • 水根沢
  • 栃寄沢
  • 小中沢
  • 大沢
  • 日原川
  • 海沢川
  • 白丸湖
  • 西川
  • 寸庭川
  • 入川谷
  • 大丹波川
  • 大沢川
  • 平溝川
  • 石神川
  • 吉野川
  • 町屋川
  • 馬引川
  • 清見川
  • 鳶巣川
  • 大荷田川

東京湾



橋梁編集

小河内ダムより下流

※高速大師橋から河口までは橋がなく川底トンネルとなる。

  • なお、新多摩川大橋と東急東横線多摩川橋梁の間において、新橋の建設計画が持ち上がっている。目黒通りと都市計画道路宮内新横浜線を橋によって延伸・連結する計画である[3]

河川敷の風景編集

渡船編集

江戸時代には39箇所の渡しがあった[4]。現在では全て廃止されている。[5]

(上流)
(下流)

公共交通ではない渡船としては現在、東急ゴルフ場(高津区下野毛)内でゴルフ場利用者向けの渡船が運航されている(クラブハウスが東京都側にあるため)。また地域おこしのために渡船を復活させようという取り組みが一部地域で検討されている。

利用編集

  • かつては砂利を売って収入とする砂利採取が行われていた。
  • 飲用水として多摩川から取水が行われている。
  • レジャー施設として、河原に多摩川の水を利用した公園が設置されている。
  • 河原を無断占有してを作ったり、住居を設置したりする人もいる。
  • レジャーの釣りなどの遊漁料は、多摩川漁業協同組合の収入源となっている。

歴史編集

 
歌川広重『江戸近郊八景』より「玉川秋月」。現在の調布市近辺から川崎市多摩区方面を望んだものであるという。

多摩川は中流以降、青梅を扇頂とする広大な扇状地を形成し、現在の武蔵野台地の基盤となった。また、その他にあった全ての丘陵(狭山丘陵を除く)を削り去り平坦な地を作った。その後、武蔵野台地の隆起により、多摩川中流は台地の南縁へ押しやられ現在のように多摩丘陵の北縁を流れるようになった。

流域では旧石器時代以降の遺跡古墳が見つかっており、沿川には早くから人が定住していた様子がうかがえる。

歌枕としての多摩川編集

古代には多摩川は「六玉川(むたまがわ)」の一つ、「調布の玉川」として知られ、多摩川にまつわる和歌が『万葉集』をはじめとする勅撰歌集に数多く収録された。

伝承・宗教編集

多摩川にまつわる民間伝承や宗教的な言説は少なくない。代表的なものとしては、日蓮宗系の宗教集団内において数多く描かれた日蓮の入滅図がある。日蓮は1282年9月に瀬谷で多摩川を渡り、現在の池上本門寺の場所にあった信徒の邸宅に入って翌月にそこで没している。その後、釈迦入滅図に見立てた日蓮入滅図が数多く描かれ、それらに多摩川が描かれることとなった。

また多摩川流域には、多摩川から引き上げられたとされる本尊や神体を祀った神社や仏閣が10以上も存在する。最も上流にあるのは東京都福生市関上明神社で、次いで東京都調布市深大寺、川崎市多摩区登戸の善立寺長念寺、東京都世田谷区上野毛六所神社、同瀬田の行善寺、大田区西六郷の安養寺、同東六郷の観乗寺などとなっている。こうした漂着神以外にも、東京都府中市にある大國魂神社の三の宮の御輿は、かつては是政で多摩川の水中に沈められる、いわゆる水中渡御が行われていた。

この他、矢口の渡しに伝わる新田義興の御霊伝説も広く知られている[6]

1831年には宿河原村にあった松の枯れ木「綱下げ松」に霊験があるとの噂が立ち、江戸からの観光客が大挙して押し寄せ、騒ぎは翌年まで続いた。風紀紊乱を問題視した江戸幕府が徹底的にこれを取り締まり、1833年には「綱下げ松」も伐採されてこの騒ぎは収束した[7]

利水編集

戦国時代豊臣秀吉の下で関東転封となった徳川家康は、多摩川下流の扇状地での水稲生産を拡大するため、1597年に用水奉行小泉次大夫に命じて両岸の灌漑用水路の建設に着手。1611年二ヶ領用水(右岸)と六郷用水(左岸)が完成した。その他にも、1604年頃より取水を始めたと推定されている大丸用水(右岸)や、1654年より取水を始めた玉川上水(左岸)などの用水路が相次いで整備され、それまで水利が芳しくなかった多摩川下流の低地・台地に豊富な農業用水をもたらし、の生産量が増大、江戸の生活を支えた。

鮎漁編集

多摩川は元々水質が良く、清流を好む鮎(あゆ、アユ)が多く棲んでおり、江戸時代、多摩川では鮎漁が盛んであった[8]浮世絵にも鮎漁の様子が描かれている[8]。多摩川のあゆは将軍家にも献上された[8]。鵜を用いた鵜飼での鮎漁も行われ、鵜飼の鮎漁の写真も残っている[8]昭和初期まで鮎漁は盛んに行われており[8]、年配の地元住民が記憶しているように、水揚げされた鮎は食用にされていた[8]

だが昭和期に多摩川周辺の人口が増え水質が悪化すると、鮎漁は一旦途絶えた[8]。その後、水質改善のための努力が重ねられ水質が良くなり、鮎漁が復活した。最近、地元の漁師が多摩川のことや鮎漁のことを人々に知ってもらおうとの想いで鮎漁を復活させ、多摩川の鮎を出荷している[8]。日本橋の老舗百貨店、三越の食品売り場にも「江戸前のあゆ」として並んでいる[8]

江戸前すなわち東京湾から遡上する鮎を増やすため、多摩川上流に位置する東京都昭島市・日野市・昭島市は2018年3月12日、「江戸前鮎を復活させる地域協議会」を発足させた[9]

砂利採掘編集

多摩川の川砂利採掘について触れた最も古い文献史料は江戸時代中期、宝暦3年(1753年)の日付がある、下丸子村の平川家文書である。これによると、下丸子村と上平間村に幕府から300坪分の砂利を納めるよう指示が下されたことがわかる[注 1]。続いて宝暦5年には源右衛門なる人物が多摩川の砂利を採掘する許可を幕府に申請し、代官所が上平間村から諏訪河原村までの13ヶ村の役人を呼び出して、この採掘に問題が無いかどうか検討させたとの記事もある。宝暦8年には幕府は多摩川砂利を御運上場としている。これは民間の業者を請負人として幕府向けの砂利採掘をさせるもので、江戸松嶋町与兵衛、川崎町源右衛門といった名前が請負人として記録されている。こうした体制は文化2年まで続き、文化3年(1806年)より、八幡塚、下平間、小杉、上丸子、上平間、小向、下沼部、下丸子、矢口、古市場、高畑の9ヶ村が共同で幕府御用の砂利採掘を請け負うこととなった。こうした体制は幕末まで続いた。多摩川砂利の需要は武家が8割、町方が2割と見られており、幕末になって武家に倹約令が敷かれると、多摩川の砂利採掘業は経営が立ちゆかなくなった。

明治以降、建築物にコンクリートが使われるようになると、多摩川はその原材料の一つである砂利の産地として注目された。また鉄道道床用や外航船のバラストとしても多摩川の砂利は多用された。砂利採掘が可能な場所は全国にあったが、需要が集中する首都圏に供給する上で、砂利の輸送コストが低く抑えられる多摩川に砂利採掘は集中していった。関東大震災後の建設ラッシュで砂利需要はピークに達し、大正時代が終わる頃には東海道線鉄橋より下流の砂利は採掘し尽くされていた。採掘場所は必然的に上流へのぼり、宮内、下野毛、北見方、諏訪河原、瀬田、二子はもとより、宇奈根、宿河原、登戸まで拡大した[10]

1922年(大正11年)の多摩川砂利の採掘量は115万トンで、翌年の全国の採掘量320万トンの3分の1を超えている[10]。この数字は日本最大の砂利生産量で、1935年(大正14年)度には145万トンに増加した[10]。過剰な砂利採掘により河床が低くなり、農業用水の取水が出来なくなったり、潮位によっては塩分を多く含む河口の水(塩水くさび)が遡行し、農業用水や水道原水に流入したりするといった被害が続出する環境問題に発展する。

また、河床低下により取水が困難となった用水路への対策として上河原や宿河原などに取水が築かれ、東京都の水道取水地があった調布(現在の田園調布)には塩分の逆流を防ぐための堰が築かれた。堰により水道・農業用水の取水は容易になったが、今度は多摩川名産の鮎の遡上を阻害することとなり、都市化が進む流域からの生活排水の垂れ流しによる水質汚染と相まって、多摩川での漁業生態系は壊滅的な被害を受けることとなった。さらに、宿河原堰の構造上の問題により洪水時に堤防を破る被害(狛江水害)も発生するなど、新たな問題が顕在化する。そこで内務省1934年2月に「多摩川砂利採取取締法」による取り締まりを実施し、1936年2月1日には二子橋より下流での砂利採掘が全面禁止されるに至った。

こうした環境保護のための規制が敷かれつつも、大きな利益を生む多摩川の砂利採掘業は止まるところを知らず、大小の採掘業者が乱立し、砂利採掘禁止区域内での盗掘が横行していた[11]。採掘された砂利は当初は主に船舶で搬送していたものの、大型建設が相次ぐ大需要地・東京に運ぶための鉄軌道敷設が各地で計画され、玉川電気鉄道南武鉄道京王電気軌道多摩鉄道東京砂利鉄道などが競って砂利輸送を行った。このうち南武鉄道などは公然と違法採取を行っていたことが記録に残っている[12]

第二次世界大戦後も東京都の立川市調布市アメリカ軍基地建設、そして高度経済成長による首都圏各地の工事需要で多摩川の砂利採掘は続き、堤防の内外には違法に採取された砂利の採掘跡が塹壕のように点在していた。これらの採掘穴には雨が降ると水が溜まり、子供が溺れるなどの被害も出た。最終的に青梅市内の万年橋より下流での砂利が全面採掘禁止となり、翌年には多摩川全域で砂利採掘が禁止された。

砂利採掘以外の環境汚染編集

沿川の急激な都市化に伴う生活排水の流入、および支流の水源となっている多摩丘陵武蔵野台地での宅地開発に伴う森林破壊による水源枯渇が相まって、多摩川の水は著しく汚染された。水道原水として利用不能になる、農業用水路が埋められる、衛生状態が悪化するという事態に陥ったが、1980年代より整備が始まった沿川での下水道が普及するに伴い、水質汚染は徐々に緩和された。また宿河原堰などへの魚道設置といった工夫と相まって、多摩川には再び鮎が遡上するようになっており、白鷺コアジサシといった鳥類の採餌を支えるまでに回復してきている(#生態系を参照)。

現在では河川敷に親水施設などが設けられ、近隣住民の憩いの場として利用されるている。急激な水質汚染とその急回復を経験した多摩川は、環境保全に向けた更なる努力の必要性を象徴する場として、多くの市民活動の舞台ともなっている。

治水編集

多摩川は勾配が急な川で、先史時代から上記のような顕著な崖線を形成するほどの「あばれ川」である。先史時代の古墳や住居跡は氾濫原を避けた高台にあったが(例外として丸子には低地に古墳が築かれている)、集落は徐々に豊富な水を求めて川沿いに広がるとともに、常に洪水に悩まされるようになった。多摩川は土砂の流下と堆積が大きいため、氾濫のたびに流路が変わった。多摩川には古来から京都東国を結ぶ街道がいくつも渡っていたが、当時中国より伝わった技術でも暴れ川である多摩川への架橋は難しく、舟を連ねた舟橋か、渡船に頼った。また氾濫が流域の村落を分断してしまうこともは度々であった。現在のような流路に近くなったのは1590年の大洪水によると言われている。現在も多摩川の両岸に残る押立、布田、宇奈根、瀬田、野毛、等々力、丸子といった地名は、かつて一つの集落で、主に川の南側は洪水による荒れ野になっていたところである。明治22年の市町村制施行時には、これらの集落は多摩川が分断したまま東京府荏原郡、または神奈川県北多摩郡に属して飛び地になり、その後に境界の変更が行われている。これらの町名の南側で弧を描く地割や道路は、かつての多摩川の南岸である。

江戸期以降も大洪水は頻発した。戦国が終わり軍事的な懸念も少なくなり、最下流には1600年東海道の架橋として六郷橋が架けられたが、頻繁に流されて財を圧迫するために再建を断念。1688年から1874年までは他の街道同様に渡し舟となった。深刻だったのは上水の取水堰口の埋没や破壊である。江戸期は流域も人口が急激に増え、特に武蔵野台地上は利水が難しく室町時代から多くの用水(玉川上水昭和用水府中用水二ヶ領用水など)が引かれていたが、洪水によって絶たれると耕作や飲水にも難儀した。

築堤は古くから行われていたようである。多くは霞堤であり、大洪水ではあえなく決壊して土地は流作地となっていた。江戸時代からの慣例で流作地では諸役や税が賦課されなかったが、1873年地租改正によりこれまで無税であった流作地にも課税されるようになり、村が自力で水害を乗り切ることができなくなってしまった[13]。しかし大規模な治水が行われないまま明治後半から大正初頭にかけて大水害が頻発し、特に1910年に関東一円を水浸しにした明治43年の大水害では、多摩川でも水害史上最悪と言われるほどの被害が出た[14]。しかし被害を大きくした要因は、富国強兵の政策の下での治水事業費の圧迫、さらに橋脚の建設、砂利の採掘、河川敷を利用した果樹栽培、川岸への工場の進出などの無秩序な工業化・都市化だったとされている[15]

以降は築堤の早期実現を求める河岸住民の声が高まることになる。1914年9月16日未明、御幸村選出の橘樹郡会議員、秋元喜四郎は、御幸、日吉住吉町田の各村民の計数百名とともに、神奈川県庁に大挙して陳情に向かった[16]石原健三神奈川県知事との面会が許されたが、知事は大挙陳情の不穏当を説諭するのみで、築堤については「考究中」を繰り返した[17]。当時は大挙しての陳情は取り締まりの対象となっており、全員がチョンボリガサ(編笠)をつけていたため、この行動は「アミガサ事件」として翌日の各新聞に大きく報道された[17]

着任早々の有吉忠一神奈川県知事は要望を受け入れ、工事は1916年2月から、上平間天神台から上丸子までの一帯で開始されたが、対岸の東京府側で反対運動が起こり、内務省の中止命令を受けた[18]。有吉知事はこの命令を無視し工事を続行、東京府との対立は妥協され、翌月10月に堤塘が完成した[18]。この強行工事で有吉知事は河川法違反と内務省の命令違反でけん責処分を受けたが、住民は知事の尽力を称えて新堤塘を「有吉堤」と名付けた[18]。現在のガス橋からバス通り沿いに、その名残が残されている[18]

1918年から内務省直轄の本格的な多摩川下流改修工事が始まる。途中、関東大震災により堤防に亀裂や陥没が入るなどの被害が出たが、遅延を含めて15年の歳月をかけて1934年に竣工、河口から二子橋までが改修された[18]

その後、日野橋までの間の改修が進められて大規模な氾濫は少なくなるが、1974年には狛江水害が発生して大きく報道されテレビドラマにもなった。以降は2016年現在まで堤防が決壊するほどの被害は発生していないが、集中豪雨台風などにより河川敷に溢水して残された人が救助される光景をたびたび見ることがある。

1990年からは、さらなる対策として、河口から日野橋までの区間をスーパー堤防(高規格堤防)とする整備事業が進められている。

生態系編集

[19][20]

 
調布堰を遡るアユ(2004年4月)
 
そのアユなどを狙って再びやって来るようになったコアジサシ(2004年6月)

多摩川では古くから内水面漁業が営まれており、多摩川の鮎は名産として江戸幕府にも上納されていた。1843年には御留川に指定され、鮎は将軍家専用で、献上する鮎は沿岸の農民が負担した[21]。明治以降禁制が解かれると、二子や登戸が鮎の名所となった[21]。二子の船宿「亀屋」は1875年から12回にわたって皇族方の御休憩所になり、大正天皇昭和天皇皇太子時代に鮎漁に来た[21]

この鮎やマルタウグイなどは、中流域では掴み取りできるほど多かったとも伝えられている。多摩川の水底には砂利が多くコケが生育し、また伏流水が湧き上がる場所や浅瀬が点在していて産卵適地も多い。そのため左記の魚の生育に適した地形であると考えられている。

魚類のほか、その魚類を捕食する鳥類も多く生活していたとの記録がある。明治以前の文献には、多摩川流域にもトキコウノトリツル類ガンカモオオハクチョウなどが訪れていたとも記録されている。これらは河川のほか水田などを生活基盤としているものだが、他の地域がそうであったのと同様、狩猟や水田の減少などにより生活を維持できなくなっていったものと考えられる。

また昭和35年頃まではコアジサシの営巣地が中流域に 44ヶ所あったとの記録がある多摩川の野鳥 p.123)が、後に壊滅する。ところが 2003年頃から再び繁殖に挑戦する番いが現れ始めた。コアジサシは水中に飛び込んで小魚類を捕らえる狩りの方法が特徴だが、その彼等を支えられるだけの魚類の生息ができるようになったことを示唆している。

中下流部では、かつてはオシドリキジコハクチョウなども多く訪れていたが、今ではめっきり見られなくなった(キジについては旧多摩村の御鷹場があった昭和20年代に多数生息していたとの記録があり、一時期は人工繁殖により増加したとの記録もあるが、近年の特に中下流部ではあまり観察されなくなった)。 反面、都市部の環境にも適応したカルガモメジロシジュウカラハクセキレイなどが近年増加傾向にあり、カワセミも安定して観察される。また冬鳥ではユリカモメオナガガモなども増加傾向にある。 流域の宅地化に伴い、庭木や公園樹木などの都市環境にも適応した種は逞しく生活し、逆に警戒心の強く森で採食するキジや、水田などの沼地を好むオシドリなどが姿を消したものと考えられる。また多摩川に限らずハクチョウ類の越冬地は北上傾向にあり、これには地球温暖化などの影響が指摘されている。

一方、かつてカモ類が見られることは希であったと言われるが多摩川の野鳥 p.125)昭和44年には鳥獣保護区に指定され(秋川合流点など一部は特別保護地区)、その保護施策が奏功し、以降カモ類は増加傾向にある。

過去の文献はいずれも、かつて多摩川は多様な生物が生息する豊かな環境であり、さらに江戸時代初期からは周囲に水田が展開することにより形成された里山的環境に適合する生物が多く生息するようになり、その状況が昭和初期まで続いていたことを示唆している。

しかし、高度成長期に入ると流域の都市化が急速に進み、流域人口が急激に増加するも、それに見合った汚水処理等の対策が為されないまま排水が垂れ流されたこと、また周辺地域の水田や森林が都市へと変貌したことなどを受け、生息できる生物が激減、一時はほぼ壊滅するという危機的状況にまで陥った。汚染が著しく進んだ1980年代以降になると流域の都市部で下水道整備が進められるようになり、左岸東京都下流部では1990年代、中流部では1980年代、右岸川崎市北部では1990年代、源流部の丹波山小菅村では1990年代に、ほぼ整備が完了した。これを受けて排水の流入が抑制され、水質が回復することによっ鮎などの魚類が戻りつつあり、また鳥獣保護区指定や水源林保全などの施策により鳥類の生息も回復しつつある。

魚類・水棲小動物編集

[22][23]

一部地域では漁業が営まれており、ヤマメニジマスフナウグイイワナなどが水揚げされているため、これらの魚種が相応に生息しているものと考えられている。また近年になると魚道が設けられるといった施策がされ、それに伴って激減していた鮎の遡上数が急増し、下流域には天然遡上の鮎が増えている。

この他、ドジョウなどの魚類、モクズガニサワガニテナガエビなどの甲殻類、他にも様々な小動物の生息が観察される。

最近は観賞魚の放流などで外来種の種類・数共に増加傾向にある。こうした状況を、南米アマゾン川になぞらえて「タマゾン川」と呼ぶこともある[24]

川崎河川漁業協同組合と環境教育団体であるガサガサ水辺の移動水族館により、多摩区菅にある稲田公園さかなの家に「おさかなポスト」が設置されており、川崎河川漁業協同組合総代の山崎充哲が管理している[25]。こうした取り組みは、外来魚などの放流防止に役立っている。

奥多摩湖
オオクチバスコクチバスブルーギルニジマスイワナハスワカサギオイカワウグイコイギンブナゲンゴロウブナヤマメヌマチチブサクラマス
上流域
イワナヤマメニジマスウグイタカハヤアブラハヤカジカホトケドジョウギバチアカザ
中流域
アユニジマスマルタウグイオイカワカワムツヌマムツムギツクカマツカツチフキモツゴコウライモロコスゴモロコタモロコニゴイコイソウギョギンブナキンブナゲンゴロウブナヘラブナ)、ドンコヌマチチブトウヨシノボリウキゴリスミウキゴリシマウキゴリオオヨシノボリジュズカケハゼメダカカダヤシドジョウシマドジョウヤマトシマドジョウオヤニラミナマズウナギヤツメウナギタウナギカムルチーカワアナゴタイリクバラタナゴオオクチバスコクチバスブルーギルナイルティラピア 等 
下流域
マルタウナギコイカワアナゴシマハゼマハゼアベハゼアシシロハゼスズキコトヒキボラクルメサヨリヌマチチブトウヨシノボリウキゴリスミウキゴリオオヨシノボリジュズカケハゼクサフグ
目撃例が報告された外来種(上記以外)
スポッテッドガーグッピー 等 前者は繁殖した個体ではなく、ある程度まで成長してから飼育放棄により密放流されたものであると考えられる[26]。後者は前者に比べて繁殖の可能性が高いものの、温泉や多量の工業廃水が流れ込み水温が保たれる限られた場所以外では、越冬できないとされる。
国内間移入種
外来魚だけでなく、元来は多摩川水系に生息しない日本産淡水魚を観賞魚として楽しんだ後に多摩川に放流する者もいると推測され、全国の日本産在来魚が多摩川で見られる。オヤニラミやムギツク、アカザなどはその代表と思われる。

鳥類編集

[27]

留鳥

トビチョウゲンボウハヤブサハシボソガラスヤマセミキセキレイホオジロカワウコサギゴイサギアオサギカルガモハシブトガラスカイツブリオナガバンキジバトヒヨドリコチドリイカルチドリシロチドリイソシギカワセミムクドリコゲラヒバリハクセキレイセグロセキレイカワラヒワウグイスシジュウカラメジロスズメなどが観察される。

冬鳥

ノスリサシバコジュケイクイナアオジアトリシメルリビタキダイサギマガモコガモオカヨシガモヒドリガモオナガガモハシビロガモキンクロハジロスズガモタシギジョウビタキツグミユリカモメウミネコなどが観察される。

夏鳥

ヨシゴイササゴイアマサギチュウダイサギチュウサギツバメイワツバメオオヨシキリコアジサシなどが観察される。

この他、旅鳥トウネンなどが観察されることもある。

河川敷編集

河川敷のうち運動場などに利用されていない草むらには雑草類が生い茂り、バッタなどの昆虫やそれを捕食する鳥類が生息する。

堤防部分では、強度維持のために定期的に草刈りが行われている。そのため日当たりのよい荒野に生育する各種雑草類やヤブカンゾウ・ノカンゾウヒガンバナなどが観察される。

河口編集

 
河口付近。干満の影響を受け、砂泥が堆積し干潟状になっている。
 
ヤマトオサガニ(大師河原)
 
クロベンケイガニ(大師河原)
 
トウネン冬羽、殿町)

[28][29]

河口付近は、左岸(大田区)には羽田空港が建造され護岸化されているが、右岸(川崎市川崎区)や中州には泥や砂が堆積し、河口から数 km にわたり、東京湾内では比較的広い干潟ヨシ原が形成されている。

かつての多摩川河口付近は遠浅になっていたため、江戸時代より新田開発のための干拓が始まっていたが、大正期以降にはさらに工業団地造成のための埋立が進められ、海岸線の姿は大きく変貌した。

この河口付近では、かつては海苔養殖捲きが盛んに行われていた。 高級海苔の代名詞として呼ばれた「浅草海苔」は、かつて養殖されていた浅草付近の市街地拡張に伴い養殖漁業が周辺地域に移っており、18世紀初頭には品川・大森での養殖が盛んであったが、河口付近では明治 4年に大師河原(現在の川崎市川崎区)で養殖が始まり、産した海苔は「大師のり」と呼ばれ高級浅草海苔として取引されたという。 また、河口付近の遠浅の海ではアサリハマグリバカガイ(アオヤギ)が大量に獲れ、羽田・大森ではウナギカレイコチギンポアイナメエビなどが水揚げされる、豊かな漁場であった。

ところが昭和時代になると、京浜工業地帯鶴見寄りから進められた埋め立てが多摩川河口付近まで及ぶとともに、工場廃液による海の汚染が進んだ。昭和30年代になると獲れた魚が油臭くて買い手がつかなかったという。また昭和44年になると多摩川河口付近でも埋立計画が立ち上がったことを受け、河口付近の沿岸漁業は昭和48年漁協漁業権を手放すことで終焉となった [30][31]

しかし、今なお多摩川河口には僅かながらも貴重な干潟環境が残っている。 こうした環境は、今や東京湾内では当地のほかに三番瀬谷津干潟盤洲干潟小櫃川河口付近)、富津干潟など限られた地域に残るのみで、東京湾西岸では唯一の天然干潟でもある。このため2000年代に入ってから詳細な調査が進められており、「日本の重要湿地500」に選定される[32]など希少かつ貴重な環境として認識されている。

河口付近の岸辺は汽水域になっており、泥質および砂質の干潟が共存している。また潮の干満の影響を受けるため好気的な環境が維持され、こうした環境は好気性生物による水質浄化(BODCOD低下)作用が高いことに加え、現在でもたとえば下記のような底生生物が確認されている(詳しくは文献[29]を参照)など、僅かな空間にもかかわらず多様な生態系が維持されている。

泥質
アサリアナジャコカワザンショウガイ類、ゴカイコブシガニサビシラトリガイシオフキガイソトオリガイハサミシャコエビホトトギスガイヤマトシジミトビハゼヒモハゼオサガニ
砂質
コメツキガニチゴガニヤマトオサガニ
ヨシ原
アシハラガニウモレベンケイガニクロベンケイガニ
石表面や岸壁など
アカテガニケフサイソガニコウロエンカワヒバリガイフジツボ類(アメリカフジツボシロスジフジツボタテジマフジツボドロフジツボヨーロッパフジツボ)、フナムシマガキ
水中
チチブテッポウエビユビナガホンヤドカリユビナガスジエビマハゼイソギンチャク

この他、近年になりアサクサノリの自生が確認された。また河底ではハマグリが生息しているものと推察される[33]など、東京湾では希少になった干潟的環境における生態系の豊かさが再確認されている。

鳥類は、冬にウミネコユリカモメスズガモヒドリガモハシビロガモオナガガモなどが群れで訪れて越冬しているとともに、夏にはコアジサシの繁殖地にもなっている。また周辺地域でも見られるカルガモハクセキレイ白鷺類などの姿は周年観察される。 一方、かつては旅鳥が多く訪れていたとの記録があるが(後述)、現在[いつ?]の短期間にシギチドリ類が旅鳥として稀に立ち寄る程度になってしまっている。

大正期までの河口付近編集

かつては東京湾の他の地域と同様、多摩川河口付近には遠浅の干潟様環境が広がっており、旅鳥または冬鳥としてシギ・チドリ類が多数訪れていた。

鳥類学者の黒田長禮は、1909 - 18年にかけて、付近の黒田家鴨場(現在の羽田空港ターミナルビル付近)、末廣島(現在の川崎区浮島町付近)、羽田町麹谷(現在の大田区東糀谷付近)にて観察を行い記録している [注 2]

文献によれば、下記で普通種として示した種は数百羽の群れで訪れることも少なくなかったことや、シロチドリハマシギなどは冬鳥として多数飛来していたこと、当時はタゲリが 7月など夏場を除く長期間にわたり見られたなど、冬鳥の越冬地としても賑わっていた様子がうかがえる。

普通種・渡来数多
ダイゼンシロチドリキョウジョシギホウロクシギチュウシャクシギオオソリハシシギキアシシギトウネンハマシギ
普通種・渡来数少
イソシギアオアシシギ
少なめ
メダイチドリダイシャクシギオグロシギツルシギオバシギ
タゲリムナグロアカアシシギクサシギ(冬鳥)、ソリハシシギヘラシギ
迷鳥
オオメダイチドリハシボソシロチドリ学名Ægialitis alexandrina alexandrina としている)、カラフトアオアシシギミユビシギキリアイ
漂鳥
コチドリ

この他、タシギヤマシギについては河口付近ではなく、近隣の水田(大正期までの河口付近は稲作地帯であった)に多数が飛来したと記載されているが、本書が記された当時には既に減少しており、稀に見るのみになっていたとある。

脚注編集

注釈編集

  1. ^ 1坪は6尺立方で、およそ10トンである。
  2. ^ 六郷川口に於ける鷸・千鳥類の「渡り」、黒田長礼日本鳥学会大正 8年。本書は渡りを考察するものであるが、多摩川河口付近に訪れるシギ・チドリ類を観察・記録するとともに、東京湾内の潮田(現在の鶴見区)から浦賀にかけて、および行徳・養老川河口付近などシギ・チドリ類が多く訪れていた(干潟があった)地域とも比較しながら考察を加えている。

出典編集

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  1. ^ 御岳渓流 (日本語) - 名水百選 Archived 2011年9月26日, at the Wayback Machine. (日本語)
  2. ^ 多摩川河口観測所 (日本語) - 国土交通省 水文水質データベース
  3. ^ わが街 かわさき 多摩川の新しい橋について質問します「区部における都市計画道路の整備方針」の公表について/東京都都市整備局東京都公式ホームページ 都施行路線一覧
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag 多摩川の渡し”. 国土交通省関東地方整備局京浜河川事務所. 2017年11月8日閲覧。
  5. ^ 水辺を歩こう多摩川 p.172「多摩川の渡し跡」。
  6. ^ 三輪修三『多摩川:境界の風景』有隣新書1988年、8-20ページ
  7. ^ 三輪、前掲書、102 - 106ページ
  8. ^ a b c d e f g h i NHK もういちど日本「江戸前のあゆ」2014年6月11日 放送
  9. ^ 「江戸前アユ復活へ地域協議会が発足 昭島など」『読売新聞』朝刊2018年3月14日(地域面)
  10. ^ a b c 鈴木2004, p172
  11. ^ 三輪、前掲書159ページ
  12. ^ 三輪、前掲書 162 - 163ページ
  13. ^ 小林1995, p.62
  14. ^ 小林1995, p.112
  15. ^ 小林1995, p.113
  16. ^ 小林1995, pp.113-115
  17. ^ a b 小林1995, p.116
  18. ^ a b c d e 小林1995, p.119
  19. ^ 水辺を歩こう多摩川、国土交通省京浜工事事務所(現・京浜河川事務所)、2002年。
  20. ^ 多摩川の野鳥、津戸英守講談社ISBN 4-06-201027-5
  21. ^ a b c 鈴木2004, p173
  22. ^ 水辺を歩こう多摩川 p.224-。
  23. ^ 水辺を歩こう多摩川 p.164、関東農政局「平成10年 内水面漁業統計調査」より。
  24. ^ 山崎充哲『タマゾン川 多摩川でいのちを考える』(旬報社、2012年)など。
  25. ^ どうぶつと生きる 捨てガメの命つなぐポスト『毎日新聞』2016年3月1日(2018年3月14日閲覧)
  26. ^ ガー目#琵琶湖などにおける繁殖の可能性とその影響についてを参照
  27. ^ 多摩川の野鳥 p.200-「多摩川産鳥類目録 昭和14年から昭和58年まで」。
  28. ^ 多摩川河口干潟の生きもの、川崎市環境局公害部環境対策課、2004年12月。
  29. ^ a b 多摩川河口干潟の生物と底質、川崎市環境局公害部環境対策課、平成18年 3月。
  30. ^ 海と人生—川崎で海苔が採れた頃、川崎市市民ミュージアム1995年
  31. ^ NAGISAネット 港湾百景(2) 海苔と川崎の海国土交通省関東地方整備局港湾空港部横浜港湾空港技術調査事務所)
  32. ^ 日本の重要湿地500 No.159 東京湾の干潟・浅瀬環境省インターネット自然研究所)
  33. ^ スズガモが水中からハマグリを捕まえてきた様子

参考文献編集

  • 鈴木穆 『高津物語 上巻』 タウンニュース社、2004年1月。
  • 川崎地域史研究会 『かわさき民衆の歩み 明治・大正・昭和』 多摩川新聞社、1995年ISBN 4-924882-12-7

関連項目編集

外部リンク編集