宝月圭吾

日本の歴史学者 (1906-1987)

宝月 圭吾(ほうげつ けいご、旧字体寶月󠄁 圭吾1906年8月12日[1] - 1987年9月13日[1])は、日本歴史学者東京大学名誉教授。専攻は日本中世史。

略歴

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長野県長野市岩石町生まれ[1]。旧制飯山中学校(長野県飯山北高等学校)、旧制松本高等学校文科甲類を卒業し[2]1930年に卒業論文「中世に於ける起請の研究」を提出し[3]東京帝国大学文学部国史学科卒業[1][4]東京帝国大学史料編纂所史料編纂官などを経て、1949年東京帝国大学助教授[5] 。1954年、史料編纂所教授併任[1]1967年、定年退官して名誉教授[6]、同年から1977年まで東洋大学教授[1]。1978年、日本計量史学会初代会長、1983年、日本古文書学会会長、文化財保護審議会専門委員も務めた。1987年、胃癌のため死去[7]

1961年、学位論文「中世量制史の研究」により、東京大学から文学博士の学位を授与される[8]。1963年、『中世量制史の研究』で学士院賞受賞[1]。 1977年叙勲三等旭日中綬章[1]。1987年叙正四位[1]

信濃史料」や「長野県史」の編纂委員も務めた。東京都立大学名誉教授の宝月欣二は実弟。

著書

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編著

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 信濃史学会 1988
  2. ^ 『官報』第60号、昭和2年3月15日、p.385
  3. ^ 東京大学百年史編集委員会 1986, p. 616
  4. ^ 『東京帝国大学一覧 昭和5年度』東京帝国大学、1930年、551頁。NDLJP:1448378/286 
  5. ^ 『官報』第6886号、昭和24年12月24日、p.306.NDLJP:2963429/6
  6. ^ 東京大学百年史編集委員会 1986, pp. 619–620
  7. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)25頁
  8. ^ 書誌情報”. CiNii Dissertations-国立情報学研究所. 2017年2月26日閲覧。

参考文献

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  • 『長野県人名鑑』信濃毎日新聞社、1974年
  • 『千曲』56号 東信史学会、1988年
  • 金本正之「恩師歴訪・明治生まれの史家点描24 寳月圭吾先生‐実証史学の明師」『歴史研究』第296号、新人物往来社、1985年、26-31頁、ISSN 0287-5403 
  • 信濃史学会(編)「寶月圭吾先生略年譜・著作目録」『信濃』第40巻第3号、1988年、163-172頁。 
  • 東京大学百年史編集委員会 編『東京大学百年史 資料三』東京大学、1986年https://hdl.handle.net/2261/00078990