富士ヶ根部屋(ふじがねべや)は、かつて存在した相撲部屋である。

沿革

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湊川部屋所属の荒獅子勇之介が、明治6年(1873年)に2代富士ヶ根を襲名し部屋を創設。関脇若湊祐三郎を育てるが、明治36年(1903年)に死去。その後若湊は伊勢ノ海部屋から高砂部屋に移籍して引退した。

高砂部屋所属の小結若湊義正大正11年(1922年)に引退し、4代富士ヶ根を襲名。昭和5年(1930年)独立して部屋を創立。昭和13年(1938年)1月場所に富士ヶ嶽を入幕させるも、昭和16年(1941年)11月に死去したことから、富士ヶ嶽改め若港三郎二枚鑑札で5代富士ヶ根を襲名し部屋を継承。新十両を決めていた東富士謹一を大関にまで育てた。

5代富士ヶ根は昭和20年(1945年)11月限りで現役を退き年寄専任となったが、2年後の昭和22年(1947年)に部屋を閉じ、東富士を本家高砂に預けて、自分は時津風部屋所属の年寄として停年まで過ごした。