寺野精一
日本の造船学者、航空工学者 (1869-1923)
(寺野寛二から転送)
寺野 精一(てらの せいいち、明治元年11月26日[1](1869年1月8日) - 大正12年(1923年)1月8日[2])は、日本の造船学者。
経歴 編集
東京府出身。1890年(明治23年)、東京帝国大学工科大学を卒業[1]。同大学院で商船構造学を研究[3]。1892年(明治25年)より同助教授となり、1897年(明治30年)より造船学研究のためイギリスに留学した[1]。1899年(明治32年)、帰国とともに教授に就任[1]。1901年(明治34年)、工学博士の学位を得た[1]。1918年から1920年まで工科大学長、次いで工学部長を、その後は航空研究所長を務めた[4]。その他、東京帝国大学附属航空研究所所長を兼ねた[5]。1905年から新潟鉄工所の造船業務指導にあたった[6]。墓所は渋谷区仙寿院。
家族 編集
- 父・寺野元良 - 尾州藩士。近藤真琴に師事し、攻玉塾の教師となり、1876年に同塾の女子科を創設した[7]。
- 母・てい - 今尾藩士・杉山吉郞次の三女
- 弟・寺野寬二(1880年生) - 九州帝国大学工科大学教授、工学博士。東京帝国大学工科大学応用化学科、同大学院を経て、1905年より同大助教授、1909年辞任し、明治専門学校よりドイツ留学を命じられ、同校教授、九州帝国大学講師、1916年同大教授。岳父に男爵山川健次郎。娘婿に新井洋吉(工学士、東亜ペイント製造)、大井田忠義(藤平純三の甥)、天笠道雄(地歌・筝曲家の天笠才寿の子。東工大卒。東京高壓工業研究員)。孫に箙田鶴子。[8][9][10][11]
- 妹・あき (1878年生) 夫・陸軍步兵大尉 春木保吉[12]
- 妹・順子 (1883年生) 夫・東京外国語学校教授 武内大造[12]
- 妻・ふじ(1877年生) - 東京士族・永田新次郞の五女
- 長男・寺野良一(1895年生[13])
栄典 編集
- 位階
- 勲章等
脚注 編集
- ^ a b c d e 人事興信録 1918.
- ^ 『官報』第3130号、大正12年1月10日。
- ^ テラノセイイチ『大日本人名辞書. 下巻』 (大日本人名辞書刊行会, 1926)
- ^ “東京大学所蔵肖像画・肖像彫刻”. 東京大学総合研究博物館. 2024年4月14日閲覧。
- ^ 人事興信録 1921.
- ^ 寺野精一氏逝去『過ぎ来し跡』 (笹村吉郎, 1934)
- ^ 『夜明けの潮: 近藤真琴の敎育と子弟たち』豊田 穣、新潮社, 1983、p118
- ^ 寺野寬二『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 『人事興信録. 第12版下』寺野寬二
- ^ 天笠才寿(読み)あまがさ さいじゅコトバンク
- ^ 『化学工業新製品紹介講演要録. 第3回』 (府立東京商工奨励館, 1935) p43(水中防錆塗料 東亞ペイント製造株式會社 新井洋吉)
- ^ a b “人事興信録1915年”. 名古屋大学法学研究科. 2024年4月3日閲覧。
- ^ 読売新聞1920年6月24日朝刊5ページに死亡記事あり
- ^ 『官報』第2776号「叙任及辞令」1892年9月27日。
- ^ 『官報』第8657号「叙任及辞令」1912年5月1日。
- ^ 『官報』第3129号「叙任及辞令」1923年1月9日。
- ^ 『官報』第3129号「叙任及辞令」1923年1月9日。
参考文献 編集
- 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
- 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
学職 | ||
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先代 山川健次郎 所長事務取扱 |
東京帝国大学附属航空研究所長 1919年 - 1920年 |
次代 田丸卓郎 所長事務取扱 |
先代 渡辺渡 工科大学長 |
東京帝国大学工学部長 1919年 - 1920年 東京帝国大学工科大学長 1918年 - 1919年 |
次代 塚本靖 |
その他の役職 | ||
先代 (新設) |
財団法人攻玉社理事長 1920年 - 1923年 |
次代 山口鋭之助 |
先代 湯河元臣 |
帝国海事協会会長 1922年 - 1923年 |
次代 斯波忠三郎 |
先代 赤松則良 |
造船協会会長 1917年 - 1920年 |
次代 近藤基樹 |