小槻 公尚(おづき の きみひさ、仁安3年(1168年) - 貞応元年3月1日(1222年4月13日))は、平安時代末期から鎌倉時代官人玄蕃頭小槻広房の子。官位正五位下左大史

経歴編集

東市正を経て、後白河院政期後期の文治3年(1187年)までに右大史兼算博士となり、同年11月に父の大夫史・小槻広房の譲りにより従五位下叙爵し、翌文治4年(1188年)従五位上に叙せられる。建久2年(1191年後白河法皇の意向によって広房に代わって小槻隆職が大夫史に復任すると、公尚の左大史への任官が検討されるが、若年(24歳)であることを理由に摂政九条兼実の反対に遭い実現しなかった[1]

のち、時期は不明ながら穀倉院別当記録所奉行主計頭壱岐守を務めた。

後鳥羽院政期末の承久元年(1219年)右大史に復任すると、承久3年(1221年)左大史に任ぜられる。一方で、公尚は歴代の官務(左大史上首)には数えられていないが[2]、これは左大史就任の背景に父広房の解任に対する見返りの要素があったたためとみられる[3]。また、公尚の左大史就任によって五位史が異例の2名となり、さらに当時五位外記も2名いたことから、五位の外記・史が4人並ぶ例はないとして、大外記・中原行方が辞任させられてしまう[4]。しかし、翌貞応元年(1222年)3月には公尚は病気を理由に左大史を辞任し、行方が復任している。こうした経過からも公尚が長期に渉って官務左大史として活動することが求められていたとは考えにくい。またこの間の承久3年(1221年)には特別な沙汰によりて石清水行幸の奉行史に任じられているなど[5]、公尚はおそらく有力な後ろ盾を得ていた可能性が高く、そうした関係から広房の解任時には若過ぎて見送られた左大史に、50歳代半ばとなってから改めて補任されたことが想定される[3]。実際に寛喜2年(1230年壬生流小槻惟任北白河院後高倉院妃)に大夫史の相続を願い出た際[6]、公尚の左大史任官を後鳥羽院の近臣との縁によるものと見做していた様子が窺われる[3]

貞応元年(1222年)12月27日卒去享年55。最終官位は前左大史正五位下

官歴編集

系譜編集

系図纂要』による。

脚注編集

  1. ^ 『玉葉』建久2年4月23日条
  2. ^ 「官務職相続次第案」『壬生家文書』16号ほか
  3. ^ a b c 遠藤[2002: 5]
  4. ^ 『承久三年四年日次記』貞応元年3月1日条
  5. ^ 『承久日時定記』承久3年3月15日条
  6. ^ 「小槻惟任申状案」『壬生文書』23号
  7. ^ a b c 『玉葉』
  8. ^ a b 『山槐記除目部類』
  9. ^ 『左大史小槻季継記』
  10. ^ a b 『系図纂要』
  11. ^ 『仁和寺日次記』
  12. ^ 『玉蘂』
  13. ^ 「承久日次定記」『壬生新写古文書』
  14. ^ 『承久三年四年日次記』

参考文献編集

  • 永井晋『官史補任』続群書類従完成会、1998年
  • 遠藤珠紀「官務家・局務家の分立と官司請負制 : 中世前期における朝廷運営の変質」『史学雑誌』第111巻第3号、史学会、2002年、 293-322,441-44、 doi:10.24471/shigaku.111.3_293ISSN 0018-2478NAID 110002365579