小田切 昌雄(おだぎり まさお)は、江戸時代中期の武士徳川氏家臣

 
小田切昌雄
時代 江戸時代中期
生誕 寛文10年(1670年
死没 享保2年4月1日1717年5月11日[1]
別名 又太郎、新右衛門[1]
戒名 心銕[1]
墓所 東京都中野区保善寺[1]
主君 徳川綱吉徳川家宣徳川家継
氏族 小田切氏
父母 父:小田切昌近、母:間宮信秀[1]
兄弟 昌雄、女子(石川忠部妻)、女子、女子[1]
小林直政[1]
昌純、女子(石川法章妻)、女子(木村種明妻)、女子[1]
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経歴・人物 編集

貞享元年6月23日1684年8月4日)15歳の時、徳川綱吉に拝謁する[1]貞享4年7月6日1687年8月13日)父・昌近が上総国山辺郡砂田・萱野村間の争論に赴いた際に疎かな行動があったため処罰されたことに連座して、山内豊明に預けられ、のち山内豊昌に預けられる[1]元禄5年5月9日1692年6月23日)赦免され、元禄9年7月5日1696年8月2日)家督を継ぐ[1]。元禄15年5月10日1702年6月5日大番に列し、正徳3年3月21日1713年4月15日)番を辞す[1]享保2年4月1日1717年5月11日)死没、牛込保善寺に葬る[1]保善寺をのち代々の葬地とした[1]

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 寛政重修諸家譜』、巻第三百九十四。