尾崎 惣佐衛門(おざき そうざえもん、文化9年(1812年)- 慶応元年10月23日1865年12月16日))は、幕末福岡藩士。諱は朝秀。

概要

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1812年(文化9年)、福岡藩士の尾崎朝間の三男として筑前国早良郡鳥飼村(現在の福岡市中央区)に生まれる。

1855年嘉永7年)に到来奉行買物奉行座敷奉行藩校修猷館の教授を兼任した。

1864年元治元年)、富国強兵策を建白し、周旋方に抜擢され、国論一致を唱え、薩長の連合を企図した。

1865年、対馬藩の勤皇・佐幕の内訌(内紛)の斡旋に成功し帰藩した。しかし、藩論一転し乙丑の獄で捕らえられ慶応元年10月23日(1865年12月16日)、福岡・正香(光)寺切腹した。享年54歳。

墓は吉祥寺(福岡市中央区唐人町)にある。

没後

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1891年明治24年)11月5日靖国神社に合祀し、1902年(明治35年)11月、従四位を贈られた。

関連

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子息に尾崎臻(おざき いたる、修猷館館長、光雲神社宮司玄洋社の一員)がいた。

参考文献

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  • 『福岡県先賢人名辞典』三松荘一 著、葦書房、1986年昭和61年)、14ページ
  • 「福岡県に於ける 明治維新の人柱」筑紫豊 編、福岡県護国神社、1968年(昭和43年)、16ページ