山内節氏
山内 節氏(やまうち ときうじ)は、江戸時代前期の土佐藩の重臣。
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛永10年(1633年) |
死没 | 元禄11年7月22日(1698年8月17日) |
改名 | 藤太郎(幼名)→節氏 |
別名 | 通称:源蔵 |
戒名 | 徳敷院達山清文 |
官位 | 左衛門佐 |
主君 | 山内忠義→忠豊→豊昌 |
藩 | 土佐藩 |
氏族 | 宿毛山内家 |
父母 | 父:山内定氏 |
兄弟 | 節氏、安東郷定 |
妻 | 山内豊吉娘・寛 |
子 | 倫氏 |
略歴
編集寛永16年(1639年)、7歳で人質として江戸表に行く。正保4年(1647年)、父・定氏の没後、15歳で3代宿毛領主となり、承応元年(1652年)に帰国する。奉行・野中兼山とは、兼山の妻の市が従妹であり、土佐藩と宇和島藩との間に起こった篠山国境争いでは兼山と共に解決を図る。また、万治2年(1659年)、兼山の指導により松田川改修工事、宿毛総曲輪を構築する。兼山が失脚して没した後、寛文4年(1664年)にその遺児を領内に預かる。