山田城 (琉球国)

沖縄県恩納村にあったグスク
山田城跡から転送)

山田城(やまだグスク)は、沖縄県国頭郡恩納村字山田小字城原にあった14世紀から15世紀頃のグスク(御城)[1]

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山田城
沖縄県
山田城 (グスク) 跡
山田城 (グスク) 跡
天守構造 なし
築城主 不明
築城年 不明
主な改修者 不明
主な城主 護佐丸
廃城年 不明
遺構 石垣
指定文化財 国の史跡
位置 北緯26度25分50.4秒 東経127度46分56.7秒 / 北緯26.430667度 東経127.782417度 / 26.430667; 127.782417 (山田城 (琉球国))座標: 北緯26度25分50.4秒 東経127度46分56.7秒 / 北緯26.430667度 東経127.782417度 / 26.430667; 127.782417 (山田城 (琉球国))
地図
山田城の位置(沖縄本島内)
山田城
山田城
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概要 編集

沖縄本島中部の西海岸に位置する標高約90メートル余の細長い舌状の琉球石灰岩台地上に築かれた平山城である[1]。城跡は2008年(平成20年)4月1日に国の史跡に指定された。指定の名称は「山田城跡(やまだグスクあと)」[2]

座喜味城からは4kmほど離れている。

歴史 編集

築城 編集

築城年代は不明。 石川市(現うるま市)の伊波グスクの伊波按司から分家したものであり、護佐丸の父祖以来の居城とされている[3]

北側の崖には護佐丸先祖代々の洞穴墓があり、文字通り『護佐丸先祖墓碑』が1740年乾隆5年)に建てられている。

護佐丸は中北山の争いから逃れた今帰仁王子が伊波城に勢力を持った伊覇按司の三世の次男と言われる。先代山田城主読谷山按司山田按司)も伊覇按司の一族係累であったが嗣子がなかったため、城主の兄弟の伊覇按司の三世の次男護佐丸が養子となって読谷山按司を継いだと伝えられる。

三山時代 編集

中山勢力圏の北端に位置しており北山勢力圏との境界にあった城で、護佐丸の最初の居城であったと言われている。護佐丸は1416年尚巴志の北山討伐に参戦し北山を滅ぼした後に読谷の座喜味城を築城し拠点を移す。伝承では、その際山田城の石垣を取り壊して人夫の手渡しで石を運んだ[4] [5]

発掘調査 編集

1986年から1988年にかけて発掘調査が行われた[1]。城の規模は東西約30m、南北約160mであることが判明した[1]。また、中国産陶磁器や銭貨などが出土した[1]。東側と西側に野面積みの石垣が残っている。

脚注 編集

  1. ^ a b c d e 沖縄考古学ニュース 沖縄県立博物館・美術館、2020年1月29日閲覧。
  2. ^ 『国指定史跡 山田城跡保存管理計画指定報告書』沖縄県恩納村教育委員会 2012年 p.10
  3. ^ 『山田グスク:土地に埋もれた歴史と文化 (再版)』沖縄県恩納村教育委員会 1990年 p.4
  4. ^ 『護佐丸展:護佐丸関連のグスク』恩納村博物館 2007年 p.12
  5. ^ 『山田グスク:土地に埋もれた歴史と文化 (再版)』沖縄県恩納村教育委員会 1990年 p.12

参考文献 編集

  • 『ぐすく グスク分布調査報告(I) - 沖縄本島及び周辺離島-』(1983年)沖縄教育委員会、沖縄県文化財調査報告書第53集
  • 『沖縄大百科事典 中巻』沖縄タイムス社 1983年 pp.120-121
  • 『山田グスク:土地に埋もれた歴史と文化 (再版)』沖縄県恩納村教育委員会 1990年
  • 恩納村教育委員会『歴史の道「国頭方西海道」』恩納村博物館 2006年 p.30
  • 恩納村博物館 『恩納村博物館紀要 第3号 恩納村の遺跡:遺跡分布調査報告』恩納村博物館 2006年 p.23
  • 『護佐丸展:護佐丸関連のグスク』恩納村博物館 2007年 pp.12-17
  • 恩納村博物館紀要『山田城跡の植物群落』第6号 2010年
  • 『山田グスク:遺構確認調査報告書』恩納村教育委員会 2013年
  • 沖縄県教育庁文化財課 『みんなの文化財図鑑 史跡・名勝編』沖縄県教育委員会 2018年 p.28
  • 『国指定史跡 山田城跡保存管理計画指定報告書』沖縄県恩納村教育委員会 2012年

外部リンク 編集