山田景隆
山田 景隆(やまだ かげたか)は、戦国時代の武将。今川家の重臣で同家の三河奉行人とも。今川軍侍大将及び中陣左翼副大将。弘治から永禄初期には松平広忠が早世して城主不在となった岡崎城の城代を勤めた。家紋は丸に二つ引(引両紋)。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 永禄10年(1567年)? |
別名 | 景高、通称:新左衛門尉、右近衛門尉 |
主君 | 今川義元→氏真 |
氏族 | 清和源氏満政流山田氏 |
子 | 川手良則 |
経歴編集
三河国の山田氏は、建武2年(1335年)に山田頼範が尾張国山田郡から移ったことに始まるという。三河の川手城(愛知県豊田市川手町)を居城とし、菅沼氏以前に武節城(愛知県豊田市武節町)にも拠点を築いていたとされる。
三河奉行人編集
今川家における三河方面の奉行人であったとされる。 天文20年(1551年)12月2日付けで、松平甚太郎(忠茂)宛に「山新 景隆」名儀で飯尾乗連(豊前守)・二俣持長(近江守)らと連署を加えた血判起請文が知られている。文書の内容から山田景隆ら連署の3名は三河方面の今川方諸士に対し軍事指揮権を持っていたと推測されている[1]。親今川である松平忠茂を後援。織田家に近い桜井松平家、大給松平家を圧迫した。
岡崎城代編集
弘治2年(1556年)に徳川家康(当時は松平元信)が今川義元の許しを得て、亡父広忠の法要のため本来の居城である岡崎城に戻った際、岡崎城本丸に居た今川方城代山田景隆に遠慮して、家康自身は二の丸に入って景隆に諸事の意見を仰ぐとしたといわれ、今川義元がその話を耳にして「この人若輩に似合わぬ分別厚き人なり」と家康に感心したという逸話が残る[2][3][4]。
桶狭間の戦いとその後編集
永禄3年(1560年)5月19日、桶狭間の戦いで今川義元が討死を遂げると、景隆はこれに併せて岡崎城を捨城とした。このため敗走してきた元康(家康)は帰城することができた[注釈 1]。
史料編集
脚注編集
注釈編集
出典編集
- ^ 観泉寺史編纂刊行委員会 1974, pp. 547-550.
- ^ 大道寺友山『岩淵夜話』
- ^ 中村孝也『徳川家康公伝』吉川弘文館、2019年(原著1965年)、新装版。
- ^ 中村孝也『徳川家康の族葉』講談社、1965年、190頁。
- ^ 観泉寺史編纂刊行委員会 1974, p. 547.
参考文献編集
- 観泉寺史編纂刊行委員会編 『今川氏と観泉寺』 吉川弘文館、1974年。
- 小和田哲男『今川義元のすべて』新人物往来社、1994年。ISBN 4-404-02097-X。C0021