山田 景隆(やまだ かげたか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将今川氏の家臣。通称は新次郎。

 
山田 景隆
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永正10年(1513年[1]
死没 天正12年8月11日1584年9月15日[1]
別名 景高、新次郎、川手主水助[1]
主君 今川義元氏真
氏族 清和源氏満政流山田氏
父母 山田義尭[2]
兄弟 宗泰、女子、景隆[1]
川手良則川手正興景善[1]
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経歴

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三河国の山田氏は尾張源氏の一族で、尾張国山田郡を名字の地とする武士だったが、建武2年(1335年)に[要出典]山田頼範が三河国設楽郡武節に移ったことに始まる。景隆の祖父の代に川手城[注釈 1]に入ったという[3]家紋は丸に二つ引(引両紋[要出典]

景隆は今川家における三河方面の奉行人であったとされ、天文20年(1551年12月2日付けで、松平甚太郎(忠茂)宛に「山新 景隆」名儀で飯尾豊前守(乗連)・二俣近江守(持長)らと連署を加えた血判起請文が知られている。当時、今川氏は東条松平忠茂を後援し、織田氏に近い桜井松平家大給松平家を圧迫していたが、この文書の内容から景隆ら連署の3名は三河方面の今川方諸士に対し軍事指揮権を持っていたと推測されている[4]。また天文22年(1553年)川手若宮社に鰐口を寄進したことが知られる[5]

永禄3年(1560年)北三河に侵入した武田氏に攻められ川手城は落城し、子息らは武田氏に降った[6]。子の良則は今川氏滅亡後は武田氏の重臣山県昌景に仕え、武田氏滅亡後は昌景の赤備えを引き継いだ井伊直政の家臣となった。

史料

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  • 「河手若宮鰐口」 - この鰐口は銘文に「河手若宮鰐口大旦那宗泰新次郎景隆 天文二十二年霜月吉日」とある。
  • 「岡崎城代山田景隆等連署血判起請文」(観泉寺所蔵文書)[7]

脚注

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注釈

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  1. ^ 現在の愛知県豊田市川手町。

出典

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参考文献

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  • 小和田哲男『今川義元のすべて』新人物往来社、1994年。ISBN 978-4-404-02097-0 
  • 観泉寺史編纂刊行委員会 編『今川氏と観泉寺』吉川弘文館; 青梅精興社、1974年。 
  • 北設楽郡史編纂委員会 編『北設楽郡史』 原始-中世、北設楽郡史編纂委員会、1968年。