山田 璋(やまだ しょう[1]1891年6月1日[2]-1985年7月9日[1])は、日本弁護士第二東京弁護士会(二弁)会長、日本弁護士連合会(日弁連)副会長[1]。二弁内会派清友会の長老格だった[3]

経歴

編集

岡山県[2]鹿児島県[4]出身(後述の父が1901年に鹿児島の第七高等学校造士館 (旧制)教授となったため)。1908年鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)卒業[5]第一高等学校 (旧制)大学予科へ進学して1912年7月に卒業し、東京帝国大学法科大学独法科を1916年に卒業(法学士)[4][6]二松學舍中退[7]。大学卒業後日清汽船に入社し上海支店勤務となるが間もなく退職し、中国製鉄取締役、藝備銀行監査役を歴任[4]

1920年弁護士登録[2]1926年に弁護士開業[4]。戦前は上海で弁護士活動をしていたが、敗戦で引き揚げて東京の銀座に拠点を移す[7]。第二東京弁護士会に所属し、会派「清友会」の成立期からのメンバー[3]1961年、第二東京弁護士会会長となる[2][3][7]。そのほか、日弁連副会長、日弁連法制度調査会委員長などを歴任[2]

著名な親族

編集

脚注

編集
  1. ^ a b c 毎日新聞1985年7月13日東京朝刊23頁
  2. ^ a b c d e 『全国弁護士大観』(法曹公論社、1977年)340頁
  3. ^ a b c d 第二東京弁護士会清友会サイト内 - 清友会の源流をたどる 第1回「清友会の歴史と私」(弁護士 鹿野琢見) 2020年3月1日閲覧
  4. ^ a b c d e 『帝国大学出身人名辞典 第3巻』(日本図書センター、2003年)1787頁
  5. ^ 鹿児島県立第二鹿児島中学校(二中)に改称されてから第1回目の卒業生で、後に東京二中同窓会の会長も務めた(鹿児島県立甲南高等学校創立百周年記念事業同窓会実行委員会『樟風遙か』(2006年11月)231頁)
  6. ^ 『第一高等学校一覧自明治42年至明治43年』133頁、『第一高等学校一覧自大正5年至大正6年』153頁
  7. ^ a b c d e 二松學舍大学『三島中洲と近代 其六』(2018年7月)21頁 - web版
  8. ^ 前掲『三島中洲と近代 其六』20頁、琢は済斎の六男