岡部 榴園(おかべ りゅうえん 生没年不明[1])は、筑前国福岡藩武士城代組)、漢学者儒学者画家を栄蔵(榮藏[2][要ページ番号])または栄造[3]と称する。

概要 編集

岡部家は教育者の家である。父の岡部千大夫が儒者、榴園の息に漢学者の千仭と二男の子益がある。子益は修猷館にあがり藩命により長崎に遊学、蘭学を学ぶ途中で縁あって養子に入り淵上潜(号・雪窓)となり、旧二島村に遣わされて廃藩置県を迎える。明治5年に旧若松町に私塾を開いた淵上(榴園二男)は乞われるままに公立学校の教職につき30年超務め、徳を慕われ町会から銀盃を受け、また生前、旧若松町字大松原に顕彰碑が建てられた[4]

榴園が漢文を教えた甥(徳永省易)の四男敬一郎は安川家を継ぎ、安川財閥を興した[5]

墓所 編集

聖福寺

主な作品 編集

脚注 編集

  1. ^ 〈日本人物情報大系〉 1999, p. 334-.
  2. ^ 『筑前名家人物志』 1979, pp. &#91, 要ページ番号&#93, .
  3. ^ 『遠賀郡史:全』 1917, p. 164.
  4. ^ 『遠賀郡史:全』 1917, pp. 164–165.
  5. ^ 畝逸安川敬一郎、行書五絶”. www.ic.daito.ac.jp. 黄虎洞中國文物ギャラリー. 大東文化大学. 2021年5月20日閲覧。

参考文献 編集

本文の典拠。主な執筆者、編纂者もしくは全集の題名の順。

関連項目 編集