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蘭学(らんがく)は、江戸時代オランダを通じて日本に入ってきたヨーロッパの学術・文化・技術の総称。幕末開国以後は世界各国と外交関係を築き、オランダ一国に留まらなくなったため、「洋学」(ようがく)の名称が一般的になった。初期は蛮学(「南蛮学」の意)、中期を「蘭学」、後期を「洋学」と名称が変わっていった経緯がある[1]。但し解剖学・医学に関しては、オランダ独自のものというわけではなく、当時のプロシア(ドイツ)の書物がオランダ語に訳され、それが日本に入ってきていた。そのプロシアの書物もアンダルス(イベリア半島一帯のイスラム圏)の書物が訳されたもので、そのアラブの書物もキリスト教が原因でギリシャ以来の書物が失われていた西欧のものをアラブが残していただけだった。それをまた西欧が翻訳し直して自然科学の基礎が復活したのだった。

目次

歴史編集

蘭学の先駆編集

先駆者としては、肥前国長崎生まれの西川如見がおり、長崎で見聞したアジアなどの海外事情を通商関係の観点から記述した『華夷通商考』を著した。彼はまた、天文・暦算を林吉右衛門門下の小林義信に学んでおり、その学説は中国の天文学説を主としながらもヨーロッパ天文学説についても深い理解を寄せていた。当時の天文学者、渋川春海は平安時代以来の宣明暦を改めて貞享暦を作成している。

洋書の禁を緩めた将軍である吉宗は、青木昆陽と野呂玄丈に蘭語習得を命じ、青木は「和蘭(オランダ)文訳」「和蘭文字略考」といった蘭語の辞書や入門書を残し、野呂はヨハネス・ヨンストンレンベルト・ドドエンスの図鑑の抄訳を著した。この二人は共に蘭学の先駆者と呼ばれ、のちに書かれた杉田玄白の『蘭学事始』においてもこの二人の功績が記されている。

また、1833年には蘭和辞書『ドゥーフ・ハルマ』が完成している。


蘭学受難の時代編集

蘭学興隆に伴い、幕府は天文方の高橋景保の建議を容れ、1811年に天文方に蛮書和解御用を設けて洋書翻訳をさせたが、これは未完に終わった。文政年間の1823年にはシーボルトが日本を訪れ、長崎の郊外に鳴滝塾を開いて高野長英小関三英などの門下生を教えた。また1825年には薬剤師ハインリッヒ・ビュルガーが来日し、シーボルトの下で働いた[2]。ビュルガーは1827年、日本ではじめて外科手術を行った。やがて外国からの開国要求を警戒した江戸幕府により、政治・思想面では抑圧が加わり、シーボルト事件蛮社の獄などの弾圧事件が起こり、続いて蘭書翻訳取締令が出された。


洋学編集

幕末には日本も開国を余儀なくされて英語による英学フランス語による仏学ドイツ語による獨逸学などの新たな学問が流入するようになったために、オランダ以外の欧米諸国から到来した学術をまとめて洋学(ようがく)と呼ぶようになるのが一般的となる。高島秋帆の西洋砲術、江川英龍(太郎左衛門)の韮山反射炉、佐久間象山の大砲鋳造、永井尚志木村芥舟長崎海軍伝習所勝海舟神戸海軍操練所など、幕府洋学は軍事的実学性の強いものであった。蛮書和解御用は、外交文書の翻訳にも当たるようになり、洋学所、1858年設置の蕃書調所と改編される。洋学研究・教育機関としての蕃書調所は、1862年文久2年)には対象言語をオランダ語から、英語などに拡大した。1863年に開成所と改称、幕府瓦解により明治新政府に受け継がれ、のちの東京大学等につながる。


発展編集

 
『蘭学事始』明治2年刊。

嘉永から幕末にかけて更に多岐に渡って発展した蘭学は語学・医学・天文学・物理学・測地学・化学の分野で、のちに『蘭学事始』を刊行し、英学にも理解を寄せる福澤諭吉長与専斎大鳥圭介佐野常民などの系譜に受け継がれる。種痘所(種痘館)を開設した伊東玄朴山脇東洋が1754年記した『蔵志』などはのちの医学に多大な影響を与えた。またオランダ正月と呼ばれる新年の祝い行事、司馬江漢らが長崎を通じてもたらされた西洋の油絵銅版画を模写しながら遠近法陰影法を独習し、日本の洋風画の先駆的な存在となるなど、多岐に渡って発展した。


蘭学塾編集

脚注編集

  1. ^ 全国歴史教育研究協議会編 『日本史Ⓑ用語集』 山川出版社 16刷1998年(1刷1995年) ISBN 4-634-01310-X p.153.
  2. ^ [1]

参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集