崔善愛事件(チェソンエじけん)は外国人に対して行われていた指紋押捺を拒否して日本を出国したことで特別永住資格を喪失したことに対する訴訟[1]

最高裁判所判例
事件名 再入国不許可処分取消等
事件番号 平成6(行ツ)153
1998年(平成10年)4月10日
判例集 民集第52巻3号776頁
裁判要旨
法務大臣が、日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定の実施に伴う出入国管理特別法一条の規定に基づく許可を受けて本邦で永住することができる地位を有していた者に対し、外国人登録法(昭和六二年法律第一〇二号による改正前のもの)一四条一項に基づく指紋の押なつを拒否していることを理由としてした再入国不許可処分は、当時の社会情勢や指紋押なつ制度の維持による在留外国人及びその出入国の公正な管理の必要性など判示の諸事情に加えて、再入国の許否の判断に関する法務大臣の裁量権の範囲がその性質上広範なものとされている趣旨にもかんがみると、右不許可処分が右の者に与えた不利益の大きさ等を考慮してもなお、違法であるとまでいうことはできない。
第二小法廷
裁判長 根岸重治
陪席裁判官 大西勝也河合伸一福田博
意見
多数意見 全会一致
反対意見 なし
参照法条
 行政事件訴訟法30条,出入国管理及び難民認定法26条1項,外国人登録法(昭和62年法律102号による改正前のもの)14条1項,日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定の実施に伴う出入国管理特別法1条
テンプレートを表示

概要 編集

崔善愛在日韓国人の長女として1960年に生まれ特別永住資格を得ていたが、1986年5月にアメリカの大学に留学するために福岡入国管理局小倉港出張所で法務大臣に再入国許可を申請した際に、外国人登録法に基づく指紋押捺を1981年と1986年の2回拒否したことを理由に不許可となった[2]。そのため、同年8月に提訴して日本を出国したが、その際に永住資格の失効を了承する書面を求められたものの「日本永住の意志を示す」ために拒否した[2]1988年6月に日本に戻ったが、特別永住者とはみなされず新規入国扱いとなり、法務大臣の上陸許可を受けて入国し、入国管理法の「定住者」としての日本への滞在には特別在留許可の6ヵ月ごとの更新が必要となった[2][3]

崔善愛の訴訟は再入国不許可処分の取り消しと永住資格の確認および100万円の慰謝料を求めたものであったが、1989年9月29日福岡地裁は「再入国不許可のまま出国しており、永住資格はその時点で失効しており、不許可処分について在留資格を失った以上、訴えの利益がない」とし原告の請求を退けた[3]

1994年5月13日福岡高裁は外国人指紋押捺制度を合憲としながらも「指紋押捺拒否による入国不許可はあまりにも過酷な処分」として不許可処分を違法として取り消したが、永住資格の確認と慰謝料請求は一審通り退けた[2]

1998年4月10日最高裁第二小法廷は「外国人指紋押捺制度を戸籍制度のない外国人の人物特定に最も確実な制度として認め、当時に反対運動が広がったことについて出入国管理行政に弊害が生じており、国が押捺拒否者に再入国許可を与えない方針を取ったことには合理性があったと判断し、入国不許可処分は著しく不当だったとはいえない」として二審判決を破棄して不許可処分を合法とし、原告の請求をすべて退ける判決が確定した[4]

2000年4月1日に永住資格を失った場合の資格回復措置規定を盛り込んだ改正外国人登録法が施行され、同月3日に崔善愛の永住資格が回復した[5]

脚注 編集

  1. ^ 曽我部真裕 (2014), p. 9.
  2. ^ a b c d 「福岡高裁、再入国不許可取消 崔善愛さんに一部逆転判決【西部】」『朝日新聞朝日新聞社、1994年5月14日。
  3. ^ a b 「指紋押捺を拒否し出国した在日韓国人「永住資格は執行」/福岡地裁判決」『読売新聞読売新聞社、1989年9月29日。
  4. ^ 「崔善愛さん、逆転敗訴――指紋押捺拒否・再入国不許可取消訴訟」『毎日新聞毎日新聞社、1998年4月11日。
  5. ^ 「指紋押なつ拒否のピアニスト 崔善愛さんに再び永住資格」『読売新聞』読売新聞社、1989年9月29日。

参考文献 編集

  • 曽我部真裕 著「1 人権の主体」、憲法判例研究会 編『憲法』(増補版)信山社〈判例プラクティス〉、2014年6月20日。ASIN 4797226366ISBN 978-4-7972-2636-2NCID BB15962761OCLC 1183152206全国書誌番号:22607247 

関連項目 編集