巨曾倍津嶋
奈良時代の貴族
巨曾倍 津嶋(こそべ の つしま、生没年不詳)は、奈良時代の貴族。姓は朝臣。官位は長門守・外従五位下。名は対馬とも表記される。
出自
編集許曾倍朝臣(許曾倍氏・巨曾倍氏・社戸氏)は『新撰姓氏録』「左京皇別」によると、「阿倍朝臣と同祖で、「大彦命之後也」とある。氏の名称は、摂津国島上郡古曾部(現在の大阪府高槻市古曾部町)にもとづくものである[1]。
経歴
編集天平2年(730年)12月の『大倭国正税帳』に名前が現れるのが初見。「介正六位上勲十二等」と署名されている。
同4年(732年)8月、山陰道節度使の判官として、外従五位下を授けられた[2]。この時の山陰道節度使の長官は多治比県守。
同10年(738年)8月20日、長門守の時、右大臣橘諸兄宅での宴で詠んだとされる
長門(ながと)なる 沖つ借島(かりしま) 奥まへて 我(あ)が思ふ君は 千歳(ちとせ)にもかも (長門にある 沖つ借島の名のように 「おく」深く 私が思う君は 千年も長生きなさってください)[3]
この岡(をか)に雄鹿(をじか)踏み起(おこ)し うかねらひ かもかもすらく 君故(ゆゑ)にこそ (この岡で、雄鹿を蹴り起こし、うかがい狙うようにして あれこれ努めるのも みな君の御徳ゆえです)[4]
の2首が『万葉集』に収められている。