平村ペンリウク
明治期のアイヌ指導者
平村 ペンリウク(ひらむら ペンリウク、1833年 - 1903年(明治36年)11月28日)は、明治期のアイヌ指導者の一人。平取コタンのコタンコロクル(首長)。
ひらむら ペンリウク 平村 ペンリウク | |
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平村ペンリウク翁 | |
生誕 |
1833年 北海道沙流郡平取町(日高振興局管内) |
死没 | 1903年11月28日 |
記念碑 | 頌徳碑(義経神社境内) |
国籍 | 日本 |
民族 | アイヌ民族 |
職業 | コタンコロクル(首長) |
人物・事績
編集1833年(天保4年)、平取コタンにシュロクの長男として生まれ[1]、松浦武四郎『左留日誌』のなかにも名前が記されている。幼年の頃から勇敢で知られ、成長してからは同胞の苦難を救うためにしばしば北蝦夷地(樺太)に渡った[1]。
1876年(明治9年)、イギリス人宣教師のウォルター・デニングはペンリウクの家に来てアイヌ語を学んだという[2]。1878年(明治11年)、ハインリヒ・フォン・シーボルト次いでイギリス人の旅行者イザベラ・バードを迎え、バードはその滞在の思い出を紀行文に残した[3]。また、1879年(明治12年)、平取コタンを訪問したイギリス人宣教師ジョン・バチェラーにアイヌ語を教えている[4]。
1880年(明治13年)、現在の平取町立平取小学校の前身である佐瑠太学校・平取分校の設置に尽力し、アイヌの子弟を就学させた[5]。1887年(明治20年)には当時の北海道庁長官の岩村通俊に呼ばれて、アイヌの現状を語っている[1]。
1903年(明治36年)、71歳で亡くなったとき、その遺産は土地や馬を合わせて千円もあったという[1][注釈 1]。
平取町の義経神社の境内には「頌徳碑」が建立されている。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d 河野(1979)p.306
- ^ 仁多見(1963)p.28-29
- ^ I・バード(2008)pp.80-146
- ^ J・バチェラー(1928)p.170
- ^ 橘(1957)p.6
- ^ “Column6 明治時代の「1円」の価値ってどれぐらい?”. お金の歴史雑学コラム. manabow(野村ホールディングス・日本経済新聞社運営). 2022年6月22日閲覧。
参考文献
編集- 河野常吉『北海道史人名字彙』北海道出版企画センター、1979年11月。ASIN B000J80LAW。
- 橘文七『北海道史人名辞典 第4巻』北海道文化資料保存協会、1957年。ASIN B000JAV0MS。
- 仁多見巌『アイヌの父ジョン・バチェラー』楡書房、1963年1月。ASIN B000JAIFEE。
- イザベラ・バード 著、時岡敬子 訳『イザベラ・バードの日本紀行』講談社〈講談社学術文庫〉、2008年。
- ジョン・バチェラー『ジョン・バチラー自伝 我が記憶をたどりて』文録社、1928年。
関連文献
編集- 土橋芳美『痛みのペンリウク:囚われのアイヌ人骨』草風館、2017年3月。ISBN 978-4883231997。
- 小柳誠之 編「(別冊)文献上のエカシとフチ」『エカシとフチ―北の島に生きたひとびとの記録』札幌テレビ放送、1983年。ASIN B000J7959G。
- 貝沢正「平村ペンリウク翁をしのぶ」『先駆者の集い』23号)